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B-29による日本空襲について少し調査してみました。

ヴェネズエラ沖のオランダ領アンチル諸島のクラサオ島に、わざわざ沢山の航空燃料用のプラントを急造、難しい小容量のプラントを1ダース以上並列運転して、1944年の後半、B-29 超空の要塞 重爆撃機の日本本土空襲用に燃料を供給したことを書きましたら、興味を持たれた方が複数居られ、大体一機当たり、どのくらいの燃料消費?とか、爆撃効率についての敵側の評価などは?,,,のご質問が相次ぎましたので、Web他、文献などを調べておりましたが、一応のまとめが出来ましたので、かいつまんで、報告しておきます。

b29schematic.jpg
23-0048a B-29 Wichita
B-29 の標準型の3面図と、主たる生産工場であった、かんさす州ウイチタのボーイングの工場で、試験飛行を待つ完成機の列です。初期の生産機は、グレイもしくはオリーブ・ドラブ(ジープの茶黒いオリーブ色)に塗装されたが、インドやマリアナに配置されると、日光の吸収で、温度が上がってしまうので、b29_dannymite early grey-painted mc
マリヤナ配転後の生産機は、無塗装の上にマーキングだけになった。gingin B29 sc
昭和19年の暮れごろからの本土空襲機は殆どギンギンに光っていたのはこのため。昭和19年6月中旬八幡及び大村地区空襲の中国奥地からの機は、オリーブ・ドラブ色塗装だったようです。この八幡製鉄への空襲については、敵側は飛行機の損害が思いがけず相当の問題があり、結構しがらみだらけだったようです。成都奥の中国基地に送り込むのに、インド西側まで、持って廻るのが大変だった上に、ここから飛び上がるまでが更に大変。先ず足慣らしに、爆弾つんで、タイ国のバンコックまで空襲を敢行していますが、40機飛ばすつもりが地上滑走中に8機は火を噴き、更に2-3百メートルの上昇中に7機がエンジンから火を噴いて付近に不時着、無事にバンコックまで飛んだのは25機に過ぎなかったと。詰まり滑走路上の空気温度は50度以上に達していて、更に、整備、給油中に日光で、エンジンの温度が上がっていて、発動機の複列18気筒の、後列上部の気筒の温度が爆発温度の達していて、もう地上滑走からエンジンから火を噴く有様、夏の真っ盛りに、インドから中国奥地までの空輸自体が、難事業だったらしい。
Webにもある、八幡空襲にもこんな記述がみられます。1944年6月初めから14日までに92機がインド離陸を試みたが、結局発火焼損などで、79機が、成都近郊までたどり着いたに過ぎなかった。隊長ウオルフが、機体、特にライト社のエンジンが設計不良であると、クレームしたが、ワシントンは怒りをあらわにしただけで、兎に角6月15日に75機発進させろと厳命したにとどまった。と。兎に角、ウオルフ隊長は、75機を離陸させた。中国大陸をあとに海上へ出た機数は、68機、八幡上空に達したのは僅かに47機であった。15機が視認爆撃敢行、他はレーダーによる、広範囲照準絨毯爆撃であったという。成果は[ one bomb hit the target] だけの殆ど無収穫であったという。この報告は、更にワシントンを怒らせただけであったらしい。間もなくウオルフ隊長は更迭されたが、遠くから遠吠えしていた、ル・メイ将軍も陣頭指揮せよと、ワシントンから放り出され、8月にインド、中国と視察して、呆れ、方針変更することになる。先ず、エンジン。取りあえず、後発だが優秀の評判のプラット&ホイットニー社のワスプ・エンジンへの換装を命じている。更に、サイパン・テニヤン・グアムからの具体的日本空襲計画と、硫黄島の 早期奪取を進言して上層部を呆れさせながらも、こまめに根回しを始めている。こうして、マリヤナからの空襲計画が急がれ、滑走路はいい加減地均ししただけで、鋼板を敷いて、繋ぐだけで、飛行場を作る促成方法がとられていく。エンジンの注文を奪われてはならじと、ライト社も必死で研究、それまでのデユアルサイクロンエンジンがキャブレーター式で引火しやすかったのを、噴射ポンプ式に改造、GE社製の2段スーパーチャージャーとの相性にも気を遣って、自社エンジンの改良に成功する。エンジンをこのタイプと置き換えた量産機は、1945年2月からサイパン方面に送り出されたようです。

B-29の日本本土空襲の実燃料消費量ですが、なかなか記述に行き当たりません。当時の複列空冷エンジン過給器付18気筒2200馬力4基の、この滞空時間や、高度履歴、からの推定で、サイパングアム、から東京名古屋往復、が東京上空滞空10分程度が、ギリギリの燃料だったという記述があることから、1機当たり平均2600ガロン程度と推定されます。詰まり、大型タンクローリー10キロリットル車1杯分で、ギリギリ1往復だったように思われます。但しこの場合は、爆弾積載量は、5000ポンドの満載ではなく75%-80%の20トンそこそこではなかったかと、思われます。硫黄島からになって、往復2000km近く短縮されて、しかも爆弾でなく焼夷弾主体搭載になって、燃料消費量は2/3ぐらいに減ったモノと思われます。
WebにあるJA2TKOさんのB-29のエンジンへの燃料給油系統図を下に引用しますが、b29_fuel system2_convert_20100408222608燃料タンクは、主翼の内側に8個外側の14個、で合計1320ガロンほど、主翼の付け根胴体、爆弾倉内に合計4個1260ガロンほど、搭載した様です。但し、工場から飛行試験合格して、ハワイミッドウエー経由、サイパンに送るときは、前後爆弾倉内に更に臨時増槽2個6000ガロン弱を増設して合計8460ガロンを搭載して、燃料も同時に少しでも前線へ運んだモノのようです。5-6月からは更にこの増槽を改良、総計9600ガロンほどをデリバリの際、硫黄島まで、運んだらしいです。トラック型タンクローリーより大きく、大型トレーラータンクローリー並みの35-6キロリットルを搭載できたようです。
因みに本稿では余談に属しますが、前記JA2TKOさんのHPでB-29のラジオ・オペレーター席の写真が公開されていますので、引用しておきましょう。b29_10_musennsiseki.jpg尚又、乗員定格数の記述で、10名と記述したモノが散見されますが、この上記八幡空襲WEBの規格表及び下図にあるように、11名が、定番であったようです。crew11.jpg
尚、兵器進化論的には、このB-29の4基のエンジンを、ターボプロップ型の3500馬力に性能アップして、翼の構造と翼幅及び尾翼サイズをそれに耐える構造に設計変更した、いわばスケールアップサイズがB-52と言われたプロペラ重爆での最大機であったわけです。

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