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2月の行事の一つ 初午

旧暦で行われた2月の行事は、節分・立春の他には、この立春後の最初の午の日に稲荷社のお祝いをすることがありました。現在では2月の最初の午の日と言われて、節分よりも前に来ることもあるノダ!そうですが、陰暦時代には絶対にあり得ないことでした。コレもモトを糾すと、空海コト弘法大師が、中国留学時代に聞き及んだ、インドのサンスクリットの農業神を導入してそれまでの稲荷信仰に活を入れたもノダなどと言う説もあるようですが、もっと単純に弥生時代稲作農業が移入されて、米が栽培農業によって収穫されるようになって、手に汗した稲作から得た貴重な米を、鼠の横取りからどうやって防ごうかと撚りより考えた末の、高床式高倉倉庫の脚柱の鼠返し板と共に、編み出された農業神で、ネコが未だ不在の時代に、鼠をせっせと捕ってくれたおキツネ様に対する民間信仰だったと考えればいいのではないでしょうか?ネコが日本に初の一匹が、輸入されたのはニャンと、、、5代目将軍綱吉の時代、ご機嫌伺いに参上した外人の土産物だったようです。直ぐにはねずみ取りなどは思いも寄らぬ大奥の限定ペットだったわけですから。高床穀物倉の鼠返しmc
伏見稲荷大社が全国ごまんの邸内稲荷祠も含めての総本山のようですね、但し安倍晴明の母親だとされる、大阪阿倍野区の「恋しくば、訪ね来て見よ和泉なる信太の森の恨み葛の葉」の歌を残して去った伝説の葛の葉稲荷は、どうやら外系とされるようです。そもそもが、天照大神などの皇族の祖神を司る神宮・神社に対し奉り、こちらは、弥生時代の稲作移入農業以来の「農民の」豊作祈願と穀物のチュー害防御守護の信仰対象ですから、ご一緒は畏れ多いと申し出て、、戦後昭和21年、神社本庁とは円満手打ちして、別になっているようです。
関東平野の農家の邸内稲荷祠は多く、多摩地区では殆ど軒並みです。コレは江戸幕府でも栄耀栄華を賄で築いたとも言われる田沼意次が推奨したのが始まりだそうです。この地区はコトに火山灰地の上に、玉川や石神井川などが暴れまくり水筋に砂山を残した為にススキの原にヤエムグラと葛が生い茂り、甘根も多く、野ねずみモグラ、野ウサギが多く、狐山やキツネ原が多かったためです。幕政時代は将軍様のお鷹狩りの野だったのが明治御一新で、インフラ整備はないまま、切り売りで農地に売り出され水がないところばかりで相変わらず、キツネ繁殖地だったわけで、川沿いの農家は、火防「野火止」と、鼠被害防除に躍起だったわけで、キツネは農家の守り神であると同時に、勧工場(後の百貨店のコト)の売れ筋ナンバーワンの襟巻きになって「キツネは死して毛皮を残し」西の外れから砂山を追われて、遂にこの西東京市東伏見に残る松山の蔭に17家族を残すのみとなった大正の終わりになって、漸くキツネ族の労働感謝の祈願のためにこの松山に伏見稲荷の分社を勧請しようと寄進を募って、遂にここに昭和4年東のお稲荷さんの赤鳥居が建ったのでした。image1東伏見神社mc
因みに今なお、キツネアナのあとが境内の裏山に少なくとも13個残されています。

上に大きな写真を掲げた、コレは登呂遺跡の復元の高床式穀物倉ですが、鼠返しが施されています。この仕掛けというか一枚の水平な板ですが、コレは、人類が穀物も食べるようになって、採集農業から栽培農業に移る頃から世界各地で考えつかれたようで、ヨーロッパは勿論東南アジヤ申すに及ばず、建築仕様の中に組み込まれていたわけです。船が、寄港して、港の岸壁のブルワークに繋留されるときにそのロープを伝って、ミッキーマウスの友達どもがぞろぞろ船を訪問するのを防ぐためにのロープの海の上に当たる部分にラット・ガードなる木の円盤が嵌められています。コレが「鼠返し」です。1176562703ラットガード(日本丸)写真は日本丸のラットガードです。

大抵の和英・英和;和独・独和:仏和・和仏:などの辞書には「鼠返し」がないから外国にはこのアイデアはないのだ!と言う人がいましたが、お笑いもイイトコです。一般にはラットデイフェンスに相当する言葉ですが、船の繋留ロープ用のこの穴あき円盤は艤装具の用語としてラットガードです。sleeping Lion と sleeping carとはチョイと違いますが、鼠を守るのではなく対鼠用のガードというわけです。 就寝用のライオンと物置で眠っているボロ車、かも知れませんがね!言葉は文化です、文化的に訳しましょう。

まあ昔の話で歴史の先生並みに見てくるわけにはいきませんが、百人集の「天の原、ふりさけ見れば春日なる、、、」の奈良時代の遣唐使派遣団の一員で留学、唐の科挙に合格洛陽の都で35年余役人に登用され、功はなったが、帰国訪唐団と共に渡海帰国しようとして3度難破で失敗最後は安南の地で淋しく送った阿倍仲麻呂と、この葛の葉稲荷の息子、安倍晴明は縁続きのようですね、仲麻呂は、中国名を「晁衡」と称し、多くの文人とも親交があったようで、李白や王維他の有名詩人が彼に関する詩を今に残しています。最後は安南史付都督(従2品)まで登り詰めています。遣唐留学生の中では出色のエリートです。

又室町時代から、朝廷と幕府の暦編纂を牛耳って、江戸幕府の末期には不勉強で幕府天文方や暦法方と悶着の絶えなかった陰陽師家の土御門家は安倍清明家14代が、この室町時代の頃の時代爛熟を反映して、世間でキツネ憑きが忌み嫌われ出して、安倍家は公家でなくキツネの血筋だ、と言われ無いように、公家家土御門を名乗ったモノのようです。
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