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インターネット講談 「飛行機発達史の1ページから」(アンドレジャピーの遭難)

新しい試みです。飛行機の発達史をひもといていますと、いろいろな苦労話、遭難の話、「星の王子様」のサン・テグジュペリも、何度か遭難し助けられ、そして最後もアフリカで遭難死です。コレは、"SAGA!" 佐賀の背振の人たちが義侠心から、村を挙げて協力した事で知られる、フランスと佐賀の心の交流のお話、もっと知られて良い、、、又飛行機の発達史の1ページでもあります。インターネットで紹介されるようになった、もとは富士重工社のカレンダーで紹介された、希代の飛行機画家 故・小池繁夫画伯の揮毫もご紹介しつつ,フランスコードロン社、旅客機の長距離バージョン「シムーン・C635」のお話、、、を一席。
☆☆[途中の説明画像の読み込みと、ブログに戻り方]の説明:
説明画像の読み込みは、薄紫の字になっていますので、そこをマウスクリックしていただくとこの画面が変わって、画像が出ます。見終わられたら、ブラウズ欄の下のツールバーの下に画面タブが表示されているはずデスので、「馬頭印」+JA2RMじじいの、、、」というタブをクリックすれば、前のこのブログ画面に戻ります。でわ お楽しみ下さい。
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飛行機の発明は、20世紀の初頭、ライト兄弟が地球を数十秒器械の翼で飛び離れたことに始まりますが、20年足らずの間に、試行錯誤による試作に次ぐ試作、改良に次ぐ改良、事故遭難を如何に防ぐ予防対策すべきか、の歴史でもありました。重い機体を空気の揚力で浮かし、且つ舵を取る方の実験から、フランスのベルヌーイ教授が流体力学理論を構築して発表、、、以降は、飛行機の形が何となくスマートにまとまってきます。「流線形」の流行は単に飛行機にとどまりませんでした。飛行機設計が試行錯誤から一歩抜けだして、理論の実現の競争に移ったのです。コレで、飛行機が事故故障は多いながらも先ず実用化に向かい始めます。広い米国も開拓がいっぱいになった頃で、南米へ、、が合い言葉、勢い郵便の配達範囲が拡大、先ずは郵便飛行機の時代(米国には当時190社を超える飛行機製造会社があった)でした。南米の高山に設けられた監視所の間を縫って飛ぶ郵便飛行機が、猛禽「コンドル」に体当たりされて撃墜されて、映画化されたりしますが、リンドバーグによる「翼ョあれがパリの灯だ!」のセントルイス魂号は、何と海鳥の体当たりを回避する「前方窓無し機」(RyanNYP2)での成功です。飛行機発達史の貴重な1ページなのです。潜望鏡「ペリスコープ」が必要な飛行機だったのです。何と言っても、長時間の運転にエンジンが耐えてくれなければなりません。空冷か液冷か?いずれにせよ潤滑油の冷却も先決。小池画伯の揮毫はご自身によると、「飛行機を描こうとしたのではありません、空、廻りの雲、下の海の波、出来れば空気そのものや風を描きたいのですが未だそこまでは、、、」だそうでしたが、、、先ずコレをご覧下さい。オランダの旅客機、元祖フォッカー社のF7b/3m「サザンクロス号」その繪の紹介ページには下の方に部分拡大図もありますが、兎に角エンジ焼き付き寸前もう海の上数メートルの低空飛行しながら、焼き付いた方のエンジンの潤滑油を抜いて焼けつつあるエンジンに注ぎ足す機外作業中の飛行士の繪があります。こうして、空冷発動機と言っても潤滑油の冷却用のラジエーターが必要になり、改良開発が急がれたわけです。すごい繪です。
1936年秋の初め、フランス運輸省の肝煎り賞金(60萬フラン当時の日本円10萬円相当)付で、「パリ-東京間100時間以内」で飛ぶ懸賞募集があり、ベトナムまでの早飛び記録を持っていた、アンドレジャピー飛行士が名乗りでてエンジン、油槽、を改良強化しただけのコードロン社「シムーンC635」(C630の改良)で12月中旬に決行することになりました。12月16日でしたか秋のパリはル・ブールジェ飛行場を真っ赤な日本の郵便ポストよりちょっと小豆色がかった赤ですが、、、シムーン機が飛び立ち、中継地は給油時間ギリギリで飛び立って、アンドレは1時間半寝ただけで、55時間余で又香港を飛び立ちます。上海まで6時間北上し、ここからジェットストリームならぬ、秋風に乗って、東京までは4-5時間!と思われたのに、、、玄界灘は「ああ、無情!レ・ミゼラブル!」、、直ぐ九州南方に季節外れの台風が北上していて、、、上海を発って向かい風に逆らって9時間燃料も少なく、日が西に落ちそうな、小雨の中"シムーン" 漸く、九州の野母岬を確認、しょうがないのでここから無線で博多雁ノ洲飛行場を呼び、/~雁ノ洲に向かう、無電を時々発してくれ」、、、で、アビーミングし、、、雁ノ洲に向かったのですが、アンドレジャピーが良く知らない九州一番の高山、佐賀県の背振山がそこにあり、山頂を越えざま吹き下ろす風に、山頂直前でたたきつけられ、アンドレジャピーの旅は終わったのでした。
丁度何度目かの雁ノ巣の無電に応答中、無電が突然途切れたので、雁の洲側が、時刻と航路から直ぐに背振の西南側とかなりの山の肩と推定、直ちに、背振村役場に電話、天候不良だがフランス人飛行士の安否を確認してくれるよう依頼。ここからが、偉い。当時の記録によると、、、佐賀の背振の人たちが夕暮れの曇り空の背振の方角に轟音を聞いて、義侠心から、村を挙げて風雨の中を簑笠姿で捜索救助に協力した事が、「権藤千秋」さん著「飛べ!赤い翼」という本になっているようです。ジャピー氏は、交信中だったから気がついてくれれば翌朝には助かると、心を決めていたのだが、ソロソロ暗くなりかけの中に、早くも麓の方から提灯や懐中電灯雨合羽の大勢の声がしたので、、、村の中に墜落したかと思ったほどだったようです。片肩を砕き、片足大腿骨骨折、の重傷で、夜を徹して、久留米に運ばれたが応急手当の後直ちに乗用車で、九大大学病院に。背振の人たちの緊急出動の素早さが効あって骨折手当も間に合い、3ヶ月ほどで、少しづつ歩けるようになり、そのころ背振の人たちは雪の中から垂直尾翼を橇として、飛行記録、地図、などを拾い出してきてくれたようです。この地図は、気象記録などと共にその昭和12年3月直ぐ、5月の英国女王戴冠式に4月には親善飛行に旅立つ、三菱 雁型「神風」号 高速連絡機の飯沼飛行士らに贈られました。
又、この雪の中橇代わりに運ばれた、シムーン号の垂直尾翼は、九大医学部で手術執刀したドクターにお礼として贈られましたが、ドクターにしてみれば「縁起でもない!」で、久留米医専へ、ここでも持て余し、日比谷の飛行館へ。戦後陽の目を浴び現在は、新橋の航空会館ロビーに展示を設け、ここにシムーン号の垂直尾翼として、佐賀の救助の際の記録写真やこの山の地点の遭難記念碑の写真などと友に、展示してあるようです。
権藤さんの本は見ていませんが、傷癒えたあとのジャピー氏と地元の人の交流、フランス政府からの手厚い感謝状、、、ほか、心温まる、交流がその後も続いたとあるようです。ジャピー氏は春3月の終わり、神戸からの帰国の船にあり、懐かしのヴェトナムの港に着く頃、上空を、「神風」号が、爆音高く追い抜いていったはずだと言うことです。
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