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第一次世界大戦(日独戦争)とインド洋の一匹狼軽巡エムデン

今更、ドイツ海軍魂でもないのでしょうが、本当にあった嘘のような話、、、をご紹介しながら、インド洋の絶海の孤島、アマチュア無線では豪州のVK9Cとして有名ですが、日本の教科書地図では図版の切れ目で省略されてしまうことが多く、又、最近のインターネットで探すと殆どこの島は出てこず、同名のプライヴェートリゾートの島が人口に膾炙していて文字通り五万と出て来ます。当時は英領、現在も豪州領です。前前項でご覧いただいた地図に書き込んでみました。拡大します。
VK9C  vk9x mc
その名もごまんとあるCocos Islandsは、現在は発見者の名前をサフィックスに付けて、Cocos-Keelingと呼ぶことになっています。進化論のダーヴィンがココスと名付けたようですが、平凡に過ぎて、まがいが多くなったようです。それはさておき、当時、列強の植民地政策に後れを取ったドイツは、海外政策に強引さと無理が見え、これが侵略植民を終えた列強からすれば、「抜かねばならぬ釘!」に見えたわけです。戦争のきっかけはホンのちょいとのきっかけですが、、、。当時、ドイツと言えば、列強の占領植民地化したオアマリの、ニューギニアの北のビスマルク群島から北、日本の小笠原群島の南までの、米領グアム諸島を除く、南洋群島が主体で、、、何をするにも手間暇かかりすぎ、いい目にはあって居ず、領土拡張への大焦りからアフリカのコンゴ界隈で、先達のポルトガルや、ベルギーといざこざを起こしていたわけです。これが、バルカンのセルビヤでの事件をきっかけにして列強が対独戦争介入する言質を与え、戦争拡大し、遂に全面戦争のいじめを喰らうのです。第2次大戦の日本もまあ同じ道(大焦りから敵を作る)をたどりましたが。後発は、こうしたいじめを喰うのです。それはさておき、、、。
そういうことで、当時のドイツの、アジヤでの要は、中国に強要して、山東半島の付け根の膠州湾の近く、青島一帯を99年租借して、東洋艦隊もここを根城にしていました。脱線ですが、青島は今の若い人は「あおしま」ですが、我々にはミカンの種類まで「チンタオ」(引佐郡三ヶ日などの)ですし、和歌山などのは「温州」と書いて「ウンシュー」(いずれも中国渡来種で中国名)でなければ中国渡来種の意味が通じませんでした。それも置いておいて、,,,
大戦拡大前、ドイツの東洋艦隊は、当時たまたまメキシコに起こったクーデターからの動乱が、市民戦争の様相を呈し、米国が、艦隊派遣を西海岸から送り込んだりしたため、ドイツも最新鋭巡洋艦1隻と駆逐艦を米国艦隊監視用に回航して見張っていましたが、チンタオの東洋艦隊は、石炭ボイラー時代で旧式戦艦と、軽巡等の編成でしたから、拡大宣言直前に大艦巨砲主義の上層部は再編を急ぎ、、、ホーン岬を回って、急遽帰国するよう指令を送ってきていたのでした。こうして、開戦当時、ドイツの軍艦はチンタオもヤップ・パラオの港にもなく、メキシコ近海の巡洋艦駆逐艦を除いて、消えてしまったように見えたのでした。行きがけの駄賃、開戦宣言直後、タヒチかフィジーかにいたフランスの砲艦が集中砲撃を受け、数分で木っ端みじんの血祭りに上げられました。

この直後ドイツ東洋艦隊の軽巡「エムデン」の艦長ミューラー中佐が海軍司令部宛に、「意見具申」として「東洋艦隊司令は砲撃に当たり、ドイツ国旗は掲げたが、戦闘旗掲揚は第一撃の後となったし、敵に対し甚だ礼儀を失している。吾は艦と部下共に艦隊行動を異にする。本官は上層部の大艦巨砲主義にかねがね反対の意見具申をしてきた、暫時、個性的な行動でお見せしたいので艦隊と行を別にすることをお許しあれ!」という旨の打電を最後に夜陰に乗じて行方をくらました。ビスマルク群島に立ち寄り、燃料と水を補給、補給船一艘を帯同して再び行方不明。なか1日後、4本煙突を仮装して英国駆逐艦に似せたスタイルで、マレー半島ペナンの湾口に停泊、近づいてきた英国輸送船を国際法に準じてドイツ国旗を掲げ停船せしめ、積み荷の臨検を行い、英国軍用石炭と、有名ブランドの石鹸他軍用資材は没収した。面白い逸話があるのです。

この没収された石鹸のイギリスのメーカーが翌日の新聞に全面広告して、「我が社の石鹸はあまりにも有名、規律と礼儀正しいドイツ軍艦「エムデン」でも大事に使われています!」とやった。チャンスは前髪で掴め、デス。

この後、次々このマラッカ水道で、英国系の商船、フランスの砲艦などと、交戦もあったが12日間に20隻を拿捕、2隻を撃沈、、、インド洋中の艦船を震え上がらせた。姿をくらましたと思えばインド東岸イギリス海軍の要港、マドラスを急襲して、陸上の燃料備蓄基地の油槽6-7艘をわずか4発の一撃で全槽燃え上がらせるや又離脱、姿を消したという。この後、英国駆逐艦の挟み撃ちに合うが、魚雷発射間隔を読み切って、転舵しざま僅か300mから二本の魚雷を火薬庫に当て轟沈、一隻は砲撃で大破炎上させた。そのあと又いくえ不明。この頃やっと日本と豪州の連合の第一特務艦隊が漸くインド洋にやってきたのです。旗艦は日本の旧式ながら一等巡洋艦伊吹、主力は豪州の新鋭快速巡洋戦艦シドニー他駆逐艦2隻ほど。
当時、世界中の海の底には海底ケーブル網が既に敷設され、このココス島にも、海底電信をインド洋の船に伝えるための、無電塔を備えて随時電報通報するシステムがあった。エムデンの次の狙いはここだったんです。ここで、ココスの無電局がエムデンの無電らしき電波を弱く受信したと放送、これを随伴した駆逐艦が受信、シドニーに伝えた。シドニーは、旗艦伊吹に「吾ココス島に急行エムデンを撃つ、追随されるや?」と打電するが、たまたま伊吹の当直無電士が、欧文信号ノイローゼで、この電文を取り漏らし、英文に現字出来ず。後々までもシドニーの美味しい獲物独り占め、、、が語り草となってしまった。豪州側では、かの有名な「オージー英語の発音が通じなかった!」というコトに語り継がれているようですが。当時の帝国海軍艦船には未だ電話設備はなく、すべての符号を一旦和文信号で受信し、ゆっくり英字信号照合表と照合すれば欧文現字出来るのですが、この無電手は、いきなり欧文符号で現字しようとしてアプセットしてしまい、取り漏らしたようです。
こうして巡洋戦艦シドニーは伊吹に後ろ髪引かれることなく快速を利してココス島に急行し、陸戦隊を島に揚陸して無電局及び無電塔破壊中の空船に近いエムデンを主砲攻撃して、エムデンは懸命に島影に回り込む途中、珊瑚礁に座礁。固定標的になってしまい、壊滅的砲撃破壊されます。シドニーは途中で補給船が逃げ去るのを目撃していたので、直ぐに追いかけ難なく捕捉砲撃で炎上させ、ココスにとって返します。未だ戦闘旗がマストに揚がっていたので、更に再び攻撃を開始、、、負傷兵が必死に戦闘旗を下ろすのを目撃しています。

こうしてさしものインド洋の一匹狼のドイツ軽巡「エムデン」は、その規律と礼儀正しさを語りぐさに、ここ、ココス島で、鉄のかたまりになったのですが、、、、おかにいて生き残った、艦長ミューラー中佐以下33名の生き残りは、辛くもその後島を脱出、密林歩行なども経験、トルコ経由で、ドイツの地中海司令部に「エムデン」の軍艦旗と共に帰任報告。ミューラーは立派に意地を通し「今更大艦巨砲主義でもないでしょ!」を実証したことになりました。その現場の一つがここココス島VK9Cなのでした。

日本からは交信していますが、カードが来ていませン。残念。

Emden mc
その後ドイツは武装解除されますが、又軍備して、軽巡「二代目・エムデン」が建造されました。新しく海洋探査装置も備え、なかでも、音響測深儀(ソーナー方式)を備え、世界平和時周航の途次、フィリピン海溝のそばで、世界最深10,226mデスか、を見つけ、その名も「エムデン海淵」と名付けられましたが、これは2代目ヂーゼル搭載軽巡、初代は石炭ボイラーの軽巡でした。上の写真の3本煙突が吐き出す黒煙をご覧下さい。
gr_emden 2nd mc
この写真の軽巡が、1926年に建造されたデイーゼル搭載の2代目EMDENです。
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