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昔の朝廷による国の名づけ

日本の政体が固まったのは7世紀の終わりで、初の行政区分と言うか、政ごとの大本をも決める律令とともに、律令国家の区分と呼び名が決められたのが、大宝律令と言われるごとく大宝元年(701年)。『5畿・7道』と58国3島がまず暫定的に決められたのだそうです。ま大和朝廷が、危機管理をするには、行政区分をしてそれぞれに長官と官府を置き治めさせるだけでなく、税調布と報告を集約せねばならないわけで、、、。ちなみに律令の律とは刑法、令とは行政法と民法に当たるものであったようです。
令制図001
120年ほどかかって天長元年(824年)までに66国2島に整理され落ちつきこれから約千年、、受け継がれていくことになったのだそうです。
上の図で『東海道』現在の関東には上下の着く国がりますが、ほかは前後に中ですが、この方向は当然朝廷のある畿内から見ての配置ですね。前後や中、上下に分けられた国の地名は、、、
zengojouge002_2015030713051485b.jpg
上述の千年を待たず戦国時代までにいくつかの国が図中に記したように、上下、前中後の国名から独立していずれも『好字2字』を守った固有名をつけられたところがいくつかあるわけです。為政者にとって土地や領地を配下の者に戦功恩功に応じて論功行賞として配分する必要が生じたなどの理由が作用しているわけですね。
すぐ上の図でなくもっと上の66国の図で、斜体字でかかれた主に東北地方の国名は明治時代になって、出羽や陸奥だけの旧大国名では適当しないとして出羽も前後に、陸奥は陸中も入れていわゆる『3陸』の3区分に呼びなしてもいいことにしたようです。どうしても地名と言うものは、ことほど左様に、人の生い立ちとともに社会とも日常生活や、報道教育いずれの面にも関連深くしみこんでいることが深くかつ多いからですね。
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