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未啓発な軍部に捨てられたアイデアの例、、

何度かこのブログにもチョロッと書いていますが、、、私と亡妻の仲を取り持った月下氷人はex川崎航空の飛行機設計主任技師だった、土井武夫・信子夫妻でした。何度も飛行機のペン画を書いてそれをネタに、各務ヶ原のお宅にお邪魔したモノでした。
奥様が料理教室をやっておられ、若い頃の亡妻はその中でも格段の味音痴、いわば「落第生」でした。、、、閑話休題
土井技師の口癖は,,,「キー60」はどうせ終戦までは格納庫にあったから、機関砲載せてB29落としてみたかったなあ。ァ、駄目か、過給器付けてなかったか!、,,,
ki60川崎重戦
土井技師は昭和2年(といっても大正15年の次の年デスよ、昭和元年は大正15年と同じ年の最後の6日間だけでしたから)3月東京帝大工学部造兵学科のご卒業、川崎航空機入社、当時ここには若いがDocter Vogtと言うドイツの飛行機大博士がいて、新入社員のドイツ語と数学の実用程度を確かめてすぐドイツ留学の準備をさせ、6月にはドイツについて、ドルニエ社の一員としてドイツの大学で流体力学の猛勉強をさせられ、一番参ったのが、当時の日本の理工学系の学生が最も苦手だった「ルンド」と呼んだ偏微分方程式だったそうです。
流体もニュートンの運動方程式で何とかなるとやってのけたのが、フランスのパスカルで、船や水の流れが何とか条件限定で数式で扱えると解析したのがベルヌーイでこれを空気まで演繹して飛行機の流線型への応用したのがフランスで成功して大正時代の流行となり、当然、日本の造船や飛行機の設計や模型実験の解析にも使えるという教育は土井さんたちの学年から始まっていたそうです。三菱の「秋立ちぬ」の九六戦・零戦の設計技師堀越二郎氏も土井さんと同期生です。ついでに言っておきますと、ベルヌーイの法則とは、非粘性流体(完全流体)のいくつかの特別な場合において、ベルヌーイの式と呼ばれる運動方程式の第一積分が存在することを述べた定理で、偏微分方程式とその第一積分を解くのが設計で、実験結果などの要素を偏微分するのが流体力学的解析になるわけで、、、飛行機や船の設計は当然ですが、私たちばけがく屋も化学プラント設計にも大いに必要且つ重要なエンジニヤリング技術なのです。学生時代には化学工学演習では、四人グループごとに分かれてしっかり鍛えられました。
造兵学科、何となく響きが、気になりませんか?当時の帝国大学にあったこの学科は、、、兵隊さんを作るのではなく、兵隊さんが使う「兵器」飛行機や軍艦といったモノ、を作るための学科の呼称でした。兵隊さんを作るのは軍部、、、でした。
その軍部たるや、、割と無知蒙昧な粘性で凝り固まった、とてもベルヌーイの定理や、オイラーの流体方程式では箸にも棒にもかからない未啓発な考えが支配していたように思います。それはそれでチョイと脇においといて、、、。
大正の始め、ドイツと、ヨーロッパ各国の戦争第1次世界大戦が始まって、、、ドイツの優秀な操縦士による空中戦が始まると、、、フランスはスマートな、ベルヌーイの流線形応用の機体の飛行機で応戦しようと、ニューポール17という安定機体の上翼の上に万力で機関銃を据え付けて操縦士が立ち上がって機関銃で撃つという方式ながら、、、戦闘機を供給します。これをすぐイギリスでも生産され、更にフランスだけでなく、イギリスの空力型の飛行機工業も起きてきます。
ニューポール17ニューポール17型
この頃、日本の海軍機関学校卒で海軍大学の修学旅行みたいに中島知久平氏と、もう一人が大正5年(1916)にヨーロッパの飛行機事情の観戦に派遣されました。とんでもなくびっくりして、我が国はハッキリ30年遅れている!と報告しますが、目の前で見ない人たちにはピンと来ません。、、、とにかく予算を取って、ニューポールの24かその又新型かを買うか、ライセンス生産すべきだと進言しますが、、、おい待て、誰がそんなモノ作れる?、、、って話になりますわな。飛行機隊、つまり空軍を作らねば!派の首領大西瀧治郎中尉(当時)に計った中島中尉は、33才で翌年海軍を早期退役を願い出て、飛行機製作所を立ち上げます。飛行機工業の影も形もない時代です。町に自動車一台も走ってない、ガソリン一滴もない時代です。全くのゼロ発進です。すべて工作機械を輸入して、飛行機のライセンス生産しながらエンジンでも何でも作っていこう、飛行機の研究もしよう、、、「夢や目標は大きいがいい!」とはいうものの、、、遠大にして広大な夢への挑戦でした。出資者には、後の川西航空機に分離していく、川西一族の他に、大西中尉が、日本中に呼びかけて、集めてきた人たちだったようです。こうして、大正時代は、主として、フランスニューポール27/29などと、イギリスブリストル・ブルドッグなどの戦闘機のライセンス生産と足らず前は完成機の輸入で済ませていたわけです。*註)
300px-ニューポール27-24ニューポール27(手前1機のみ)奥は24型
ブリストル・ブルドッグ英ブリストル・ブルドッグ日本初の艦上戦闘機
300px-Kou-siki_4gataNP29drage.jpg陸軍甲式4型戦闘機(np29ドラージュ)液冷発動機*)
中島氏は元々、飛行機の操縦よりは整備が好きで、もし海軍居残れば整備将校だったろう、、と言うヒトだったそうで、このように進めながらも、ブリストル・ブルドッグのエンジン「jupitar]の分解組み立てを繰り返しては、国産を模索していたようです。後に「寿」というエンジンを作り出しています。このほか、アメリカのエンジン、ライト社の[光]なるほどライトですわな!発動機を試作研究していたようです。このほか、別途、商社に依頼して、P&W社の1000馬力級の、通称「motor-A」という謎のエンジンを買い求めて試作研究もやった様です。これが、10年も後昭和14年から国産量産して、漸く陽の目を見たハー25つまり海軍呼称では「栄」(読みようによっては「エイ]=Aですわな)しかし、同じ9気筒ながら馬力を失うことなく、ストロークを縮めてエンジン全体の胴直径を小さくして飛行機のエンジン・ナセルを一回りも小さく完成して、空気抵抗を少なくして零戦の性能にかなり貢献しています。これに力を得て、更に4年の研鑽で「誉」という、9気筒二段の18気筒1990馬力のの一回り形は大きいが、大馬力のエンジンを完成し中島飛行機の機体でなく、川西飛行機製の機体、水上戦闘機強風の下駄を脱がせた、紫電、紫電改の推力を増大して、最強の局地戦闘機にしています。(機体は前述の川西航空機で設計主任技師は、土井さんの10年後輩の菊原静雄技師**))この強風という水上戦闘機は、初めこの強力エンジンを使うことで、プロペラの癖(発生気流の偏流の他にプロペラ回転慣性)がモロに一方側に出ることを避けるために、ギヤメカで二重軸をを反転させ、二重反転プロペラにする設計でした。昭和18年から19年に掛けて実験された試作強風1号機の2翅二重反転ペラの写真です。
二重反転ペラn1k1.png
結局、空力的には、大馬力のプロペラ癖は完全に解消しますが、ギヤメカ反転器の整備が無闇矢鱈と煩雑で、整備兵の手に負えないモノと判断され1990馬力の搭載を諦め、1500馬力のエンジンの搭載にとどめ、プロペラ・スピンナートップのペラを3翅ペラにし、二枚目のペラを無くしその分重量軽減したわけです。このため、強風実機のプロペラ・スピンナーとエンジンナセルの間には一呼吸休止符を置いたような具合に見える写真が多いわけです。
最終型強風
こういう風に小さい羽根に強力エンジンを積む(翼面荷重を大きくする、といいます)とスピードは出せますが、戦闘機は小回りが利かなくなり、つまり「一撃離脱型」になり、、、帝国陸海軍のお偉いさん達好みの空戦性能がグンと悪くなります。何とかならないかと、川西航空の技師全員が知恵を絞って考えたのが、「空戦フラップ」空戦時のみにチョロッと、両主翼の小脇に2段フラップを垂れては?というアイデア、、、どうせ、対空気速度を測るピトー管で静圧に対する動圧を測るために水銀・マノメーターを使っているのですから、この水銀の必要な場所に別のいくつかの電極を付けて、かかってくる回転G、と重力の合成ベクトルで傾く水銀の位置で電気が入り切り出来て、フラップを自動的に出し入れできれば、、という、電装の清水技師の発案で強風と紫電では両翼同時コントロール、一部紫電改(1990馬力)では、両翼別々のベクトル管理を試行したと言います。源田サーカスといわれた、松山紫電改隊源田隊長機他5機ほどの紫電改には、この最新式自動空戦フラップが装備されていたと言います。
紫電改15
紫電改の二段空戦フラップ
昭和26年に来日した、アメリカの技師兼空軍操縦士は、この源田隊長機他2機の紫電改をアメリカで最高のオクタン価の
燃料で試験した人で、この空戦フラップの効果の高さに驚きあきれた人、、、これを最高の操縦士源田が乗りこなしたら、誰も叶うはずがないと、、、。川西、当時は既に新明和工業に改名したところでしたがわざわざ訊ねてきて、、、「どうして、こんな素晴らしい機構を全部の紫電改や他の戦闘機に付けなかったのだ?」と逆に菊原氏に尋ねたと言うことです。
菊原氏に代わって、清水技師応えて曰く、”水銀電極封入するガラス用の材料たとえば、ガラス用の砂は四国にあったが輸送手段、瀬戸内を渡る船もなく鉄道はが空襲されて動かなくなって、ガラス工場に届かなかったから、、、水銀だけあってもねえ、電気は流せないんだよ!”、、国内工業はそんな空襲爆撃事情下にあったのでした。
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*註)この頃を語った中島氏の苦労談の一つに、こんな話がありました。(確か、故・佐貫又男氏(昭和15年東京帝大造兵学科卒)の著書に)
空冷発動機ばかりを扱っていた、陸海軍の整備兵も、中島飛行機社の整備員も、ニューポール29ドラージュのエンジンは、液冷型で扱い慣れなかった。仕方ないので、イギリスやフランスの会社に、エンジンの整備に堪能な技師はどうやって得ているのか?と質問状を出したところ、両者とも、、、「もし空軍の若い整備兵員で、うまく扱えないときは町の自動車ガラージュに出せばいい、そこのヴェテラン・エンジニヤーが何の苦もなく扱ってくれるから。」って返事が来て、、、一同ダア!,,,町には一台の自動車もない時代の日本でした!"
30年の技術の後れだけでない、、時代そのものの遅れ、でした。
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**)註:土井さんの話に依れば、、、戦後すぐは、新明和工業に居候に入って、後輩菊原君と一緒に寮にいたが、代用食を黙々と食べながら、彼は、うんうん、いいながら何か考えている、、、何考えている?ってある時聞いたら、「ああ、こんな芋麦飯よりは、ルンド解いている方が、、、アタシャ、今、米国製の飛行艇の模型で実験しているので、、、麦飯よりかはルンドの方が楽しいんですよ、,,、」って、その米国製グラマン社のアルバトロス飛行艇の木型模型の実験の解析から、新明和のPSXが目論まれ、、、菊原静雄技師の"「三度」の飯より「ルンド」が好き"、、、が後に、[究極の飛行艇」と呼ばれる、PS-1;US-1Aへと発展したのだそうです。




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