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太平洋戦争中アンボンにはインドネシヤ解放の基地がありました。

前述のアンボイナ事件に掲げた、1623年の地図とは又チョイと趣を異にする、1943-4年頃、帝国海軍基地が、▲マークで入った、青写真での当時の蘭領印度シナ辺の地図です。アンボンにも▲マークはありました。赤字で書き足しておきましょう。この基地でのいろいろを空中戦まで交えて書き残したのは他でもありませんし「大空のサムライ」こと坂井三郎でもありません。愛機97大艇と共に、部下を信頼し、愛機の翼の樫の支柱が粘り強く頑丈なことを信頼して、たとえ軍紀に違反しても、敵を撃ち、自分や愛機と共に生き残る、を信条として、ついに終戦直後まで帝国海軍ではただ一機残ったという「奇蹟の飛行艇」と共に生き延びた、「北出大太少尉」というひとりの海軍少尉です。この方の更に偉いところは、アンボンや、その廻りの基地勤務時代に、現地の原住民の人々と少ないながらも言葉を交わし、オランダの圧政よりは自由な今がいいという、彼らの切なる気持ちを知り得て、終戦後もインドネシヤ独立戦争のために、インドネシヤに居残った万人をこえる、元日本陸海軍の戦友達がいたことに気づき、後にインドネシヤに戻って、この人達を応援し、、、、更にインドネシヤ独立後に又あらためて、その独立戦争に貢献した日本軍人だけじゃない現住の人々、の記録も書き残されたことです。

アンボン基地
太平洋戦争従軍して、敗戦、・終戦、、、ぽっかり空いた胸の空白を埋めきれず、日本に帰らず、現地に残った元日本兵があったことは、例として、ビルマ(現ミヤンマー)戦線での、「ビルマの竪琴」(黒白映画)の「水島一等兵」が知られていますが、ビルマの近くのマレーシヤでも、「ムルデカ」に参画しようと現地に残った数百名の日本兵があったようですし、、、現在の首都「クアラルンプール」には「ムルデカ・スクエア」が残っています。

ビルマの竪琴
「ムルデカ」は日本語にすると「独立」で片付けられてしまいますが、ビルマやマレーは当時19世紀からの英国の植民地領、インドネシヤは18世紀からのオランダの植民地領、住んでいた原住民側から見ると、まず民族解放、そしてよっこらしょと独立、、という大変なことだったのですね。
ちょっと差し挟みますが、マレーシヤ語「ムルデカ」ですが、、、日本人にはなぜか理解しがたいようですが、ピテカントロップス「ジャワ原人」の子孫インドネシヤ人とマレー人は同一民族であり、いずれも殆ど同じマレー・インドネシヤ語を話します。従って、「民族解放・独立」の「ムルデカ」は、マレーシヤでもインドネシアでも全く同じ「ムルデカ」です。
merdeka.png
英国は紳士の国、マレーシヤはゴムの栽培、錫鉱石の採鉱ためにこの植民地は割と大切にしそれまでの王族を王国ごとほぼ自治権を認めた形で残した植民地でゴムの植林に注力し管理をしていました。英国の拠点シンガポールを攻めるために日本陸軍はマレー半島東海岸コタバルに敵前上陸し、500名足らずの英軍は抵抗もせずすぐ降伏、6萬の日本陸軍は、自転車会社5社製造・在庫と足りない分約5万台は派遣部隊の出身地福岡県と愛知県の県民の所有自転車の供出品かり集め、持って行った8万台の自転車に乗って、マレー半島の東と西の海岸道路をひた走って南下したのです。「銀輪部隊」と報道されました。この6萬の軍勢は、ご飯を炊くのと、夜「マレーのハリマオ」(トラ)が怖くて、宿営の廻りのゴム林(非常に良く燃える木なのです)を必要以上に焼いた、、、これが現地の人々に多大の心理的経済的負担になったようです。もう殆どトラは居なかったのだそうです。終戦後英国はシンガポール島を除いて、、又その水源契約はしっかり残して、割とあっさりマレー半島は開放しています。
一方、ジャワを初めとするインドネシヤは大変でした。
1945年8月15日日本軍が降伏するとまもなく、、、独立派の巨頭スカルノが、ラジオと新聞で、独立と大統領就任宣言をします。元日本軍人のなかにもこの賛同者は多かったと言われます、船もなく未だ復員できない元日本軍は一杯居たワケですから。ところが、、旬日を経ずして、どこからともなく、オランダ軍が上陸してきて、オランダ領復活宣言します。その前に、日本軍は、自ら武装解除して、武器弾薬を現地人にに和気藹々のうちに引き渡していたそうです。「日本の兵隊さん、鉄砲や機関銃ありがとう!」と現地の人が決起してオランダ軍に抵抗を始めます。今もジャカルタの歴史博物館*)前庭に日本軍の大砲もあるそうですが、「大砲の撃ち方も教えてちょうだい!」で武装解除したはずの人たちが、初めはおそるおそるコーチのつもりで、、、武器の使い方指導していたのが、とうとう熾烈な独立戦争に巻き込まれていったようです。
ジャカルタ国立博物館前庭
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*)註:断っておきますが、現在この歴史博物館には、前庭の大砲以外にはオランダや日本の占領時代の痕跡はなにも収蔵されていない、つまり原人から、現在に至る歴史王国時代を含む純粋ジャワの民族歴史で、蘭日に関するものや独立戦争に関するモノは一切展示していないそうです。これが、インドネシヤの「一つの歴史認識」のようです。
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その数約一万、そしてそのウチの千人以上の元日本兵がこのオランダ軍との独立戦争で日本に復員することもなく亡くなったのだそうです。遺骨は、ジャワの風習で土地の守り神、持ち去ることは外道です。その後50年遺骨収集も許されていませんでした。これらの詳細が、この北出大太氏の「ムルデカの道」に記述されているそうです。この本の出版が、ヨイショして、インドネシヤの国民代表会議を動かし、新しい法律を作って「日本兵の遺骨だけは日本に眠らせよう」ということになり漸く遺骨収集交渉が始まっているようです。
ここで、終わっておこうかとも思いましたが、一つ、終戦までサバイバルした、この奇蹟の飛行艇と北出少尉のサバイバル術にちょっと触れておきたく思いました。北出氏は霞ヶ浦に「飛行予科練習生」「♪,,7つボタンに桜に錨、今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦に、、」の所謂「予科練」が出来たとき水上部隊内火艇操縦員からの応募生で、飛行兵になってからは、水上機主に飛行艇の操縦員で、横浜基地から大陸戦線、呼び出されて横須賀空技廠のテストパイロットの経験もあり、飛行艇の機械的限界強度を、身を以て体験していた、、これが苛烈きわまる空戦、補給も厳しい南方に放り出された基地で生き抜いた大きな要素と思われてなりません。又同氏が残した出版本のもう一つ「奇蹟の飛行艇」の表紙写真には翼内燃料タンクから白煙を吐く97大艇の俯瞰写真がありますが、、、これは同誌の記事から察するに、終戦間際にジャワ基地から内地に避退する帝国陸海軍高官を輸送した同僚操縦士、佐藤航空兵曹長機の米軍機のガンカメラによる台湾上空での撃墜機記録写真と思われます。北出氏はこのとき偶然にジャワ基地で、佐藤飛曹長にあって「台湾はもう敵の制空権下だ、軍令違反でも何でも台湾は避けて飛べ、」とアドバイスしたのに、佐藤氏は寂しく笑って、「上官を目の前に積んで飛ぶんだぞ、軍令違反が出来るか!」と出ていった、、、その墓標代わりにこの写真を占領軍に乞うて探し出して、表紙に使ったとしか思われません。戦争がいかに虚しいモノか、、、氏は、紙背に語りたかったのだと思います。
奇蹟の飛行艇表紙以下少しこの本に頼ります。
冒頭の基地マークの入った地図で、ジャワを英領ニューギニヤや豪州基地から守る防禦戦線としてはマイコール・マノクワリなどが第一線でアンボンはその補給・支援基地だったようで北出少尉の97大艇も兵員弾薬時には食料輸送が主任務、
北出艇の他は皆2式戦・零式3座水偵・零式観測機・2式水偵といった小型水上機基地であったようです。英豪軍は、時にB-24やB-17での空襲もあったようですが、殆どが、英国製ブリストル・ボウファイターという多能双発戦闘攻撃機による、低空奇襲銃撃が主で、日本の所謂「下駄履き」と呼んだ、水上戦闘機では、追いつけず切歯扼腕だったようです。
300px-Bristol_Beaufighter.jpg
2式水戦基地
2式水戦搭乗員達003
この本によると、北出氏が97大艇を駆ってアンボン基地に到着した直後の夕方、マイコール基地からの無電で、「敵襲、当方全機炎上」という状態であったそうな。現地住民との交流はあり、例として、この同等機が、敵機に撃たれ被弾、ニューギニアの魔境に不時着漂流したが、3人のうち2人の搭乗員は、20日も後に現地人のカヌーに送られて、ひょっこり基地に帰還できたという。
零式三座水上偵察機004
北出少尉が、がたが来ながらの愛機
南方基地での九七大艇006
と共に生き抜くことを得た、一つが、この、40度を超える急降下は禁止という97大艇に軍令違反に近い限度ギリイチの急降下で、死地を脱したり、敵潜水艦を撃沈したりした、横須賀テストパイロット時代に体験した97大艇の4本の樫の棒の主翼支柱の強度信頼程の部下との絆信頼の心があったからと思われます。
九七大艇の急降下005
後記) 私は、残念ながら、この北出氏とはナンの縁がありませんでしたが、丁度1年前になくなった同期入社の同僚が、停退後、同町内の老人会で北出氏と知り合い、友人の方がラジコン飛行機狂に陥り長年連れ添った婆さんが、出て行ってしまったと知り、北出氏がこの本を読んでみなさいと、呉れたのだそうです、それからまもなく私の友人は、私にこの本を送ったまま急逝したようでした。何か胸を打たれるような一年が過ぎこれは何か書き残すべきと思い、ここに一文を残しました。、、
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