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日本航空が定期便運行を始めたころのお話

隣の半島で、38度線を破って、北が南下侵入を始めて、ドンパチが始まったのが日本では、ラジオが、NHKの他に民間放送が許可になり、その試験放送が大阪や名古屋京都などでいくつか始まった昭和25年6月の25日ころ、、、でした。直ちに国連で、この侵入は、国連憲章に違反することが確認されて、南鮮には国連軍が協力することが採諾されて初めての国連軍が参戦した戦争になりました。国連軍というモノの南鮮には米軍駐留部隊があって日本にいたマッカーサーGHQの占領支配下でした。当然占領下の日本がこの支援基地になったわけです。こうして日本の米軍支援部隊が増強されました。赤羽の旧帝国陸軍兵舎と練兵場にもカマボコ兵舎が出来、将校とサージェント級の宿舎が出来、現在デング熱騒ぎの代々木公園旧練兵場には、続々と本格庭付きの西洋建築の高級将校官舎が建って代々木原宿間の酷電山手線からの景色ががらっと変わりました。西部劇時代のグラント将軍の名が付いて「グラント・ハイツ」,,,,反対側の戦災・焼けトタンのバラック街町並みとは雲泥の綺麗な西洋箱庭でした。
コーンパイプを咥えたマッカーサー元帥が、コンソリデーテッド・コンステレーション型「バターン」号で、終戦直後8月の終わりに厚木基地の降り立ってから5年。この隣国の事変で、戦争特需の波が押し寄せ始めたのでした。米国の廃船するLST級中型船が集中的に続々と兵員やその支援物資を摘んで片道輸送、更に八幡、釜石の製鉄所に石炭輸送して、役目を終え自らも製鋼資源鉄くずとなって、船舶用鋼版や鉄道レールとなって、日本の交通網復興が急ピッチに進み始めたのでした。
参考になるでしょうから書いておきますが、当時の在日の米軍は、織田信長の鉄砲組の3段構え並み、半島戦線で1ヶ月戦ってくると、ソルジャークラスは、大井・鮫洲のカマボコ兵舎でほぼ1ヶ月休養した後、北海道日高演習地で1ヶ月の部隊訓練の後、又半島戦線へ投入約1ヶ月、各移動を含めて約4ヶ月が1セットだいたい3セットが1年で後方避退、だったようです。赤羽のソルジャークラスも大体似たような、シフトだったと聞きました。大井・鮫洲のカマボコ兵舎ソルジャーキャンプには学生アルバイトで、何度も足を踏み入れましたが、半島戦線帰りのすぐは、非常に気が立っていて、けんかが絶えず、レーション(野戦糧食)の実入り缶詰が飛び交うような激しい喧嘩もしょっちゅうですが、未だ赤線華やかな東京、、、文盲もいるGIキャンプのキャツらが、江東区洲崎辺りのKeikosanなどにラブレターの代書を頼むようになるころにはすっかり素朴な田舎青年の落ち着きを取り戻し、、、ユタや、オクラホマの故郷のカワイコちゃんの話など、、、聞かせてくれたモノです。
1950年の6月、事変勃発南に国連軍が付くならと、秋の終わり頃から、中共軍が越境急速に南下して、最前線は元八路軍の屈強精鋭が出没、国連米/韓国軍も叶わず、どんどん後退、年が変わって包囲されていたソウルも陥落、、、
この1951年春頃から、食糧配給事情も漸く好転、東京の外食券食堂も、押麦入り飯から銀シャリに変わりはしめました。
初めてのアマチュア無線の従事者免許の国家試験が電波管理委員会形式で6月に行われ、1,2級計百余名の合格者と報じられました。しかし未だいつ無線が、許可になるか、当時衝に当たっておられた庄野さんによると、GHQの態度は「防共上簡単には許可できない」、、、そう、米国議会では前年からマッカーシーのレッド・パージ旋風が吹き荒れていましたし日本でも、東大京大等の極左教授が「GHQの意向」により公職追放され、逆に、自由党などの旧帝国議会議員などの追放者が、追放取消・社会復帰となりました。
もくせい号第1便mc
そんな昭和26年10月、「親が子よりも後から出来るのは里芋ばかりだ!」じゃないけれども、{GHQの意向により}日本航空が設立されて、(因みに、日本航空(株)法が成立するのは日米行政協定発効後の国会)GHQの認可も下りて、当時日本に乗り入れていたノースウエスト航空から、機長操縦士、航空機関士、搭乗業務員丸抱え、機体整備航行運行丸任せ条件での1年間のリース契約で、マーチン2・0・2及びDC4B数機の丸抱えチャーターで日本航空の国内線が急遽第1便が10月25日に出発、誕生したのでした。
むろん戦前昭和10年代の日本には、大日本航空という航空会社があり、国内線定期便の他、朝鮮満州線、更に97式川西民航型(綾波型)飛行艇使用の南洋群島線、及び2週1便程度の赤道越えチモール線定期便まで開設されていたのでした。
97綾波 小池画mc

前稿で、日航機「もく星号」の遭難のことをちょこっと書きましたが、この朝鮮半島での戦争とそのために、日本国内では、国連軍の中心たるアメリカ軍の、三段構えの一つ段階、実弾射撃を伴う実戦訓練が行われていたのです。上記では、陸軍のソルジャーは北海道日高での実戦訓練だけ書きましたが実は日本全国20カ所近くの実弾訓練場実弾訓練空域がありました。、早い話、関東でも湘南海岸、茅ヶ崎沖の烏帽子岩の見える藤沢江ノ島対岸から、茅ヶ崎中海岸までは、海軍陸戦隊の上陸演習、実弾射撃場になり、、、それまで小松原の中に折角戦後居着いていた、毎早朝、しきりに「チョットコイ、チョットコイ」と啼く沢山の小綬鶏の群れをバリバリ、パンパン、、で一瞬のうちに追い払って、以降この地区では、全くの絶滅種となり、動物園でも絶滅危惧種ではないでしょうか。
小綬鶏つがい
まあここは、もくせい号の遭難とは関係ありませんが、東京湾の入り口のちょっと先野島崎沖には、航空標識との関係で、米空軍機の空戦訓練海域があり、当然摸擬弾やら実戦訓練弾射撃も行われていたわけです。従って、房総内側の館山の航空標識がこの民航機発着でのキーポイントになったわけで、羽田を発って、館山までは、2000フィートを保て、そして、大島三原山の南の次の航空標識差木地までの間に三原山よりも十分に高い高度を取らせるべきなのに、もし間違って、館山から南進して、訓練空域に6000フィートなどの訓練高度で入ったら撃墜の恐れもあるために、管制官は「館山通過後も10分間は2000フィートを保て」と言う癖が付いていたようです。
この1951年4月8日、羽田まで操縦士を乗せたタクシーの運転手の証言で、かなりアルコールが入って「ゴキゲン」であった(朝日新聞ではない!)ということもあるが、羽田の管制官は特に当日は天候を考え、特に館山を過ぎたら次の10分間に6000フィートの高度まで上げるように訂正指令したと言っていたようです。しかし、差木地の航空標識から、10kmも北にずれた三原山の中腹2000フィートにも満たない高さで激突しているのですから、、、「アル中」説も「撃墜」説も出てくるわけで、本来ならば、管制官と操縦士の会話記録テープが公表さるべきであったのに、米軍はなぜか、頑なに公表を拒否したのでした。この頃は未だ戦前の航空灯台に似て非な航空標識法航法で、それに離発着は特に「管制官の指示に従う」と言うことがあり、、、もくせい号の遭難は、謎のママで蓋がされたわけでした。それから半年たって、ノースウエストとのリース契約更改に際して、日本航空も自前のDC4B機一機を購入「高千穂号」と名付けて、漸く自前の整備、自前の搭乗員、但し機長は、必ず外人機長での自前航行が徐々に始まっていくのでした。
DC4B高千穂号
別件ですが、上記引用の新聞記事等は、朝日新聞を敬遠しました。と申しますのは、ちょうど、この日本航空の第一便が飛ぶようになる丸1年前の、昭和25年9月27日付の朝日新聞で、日本共産党のGHQ追放大物幹部伊藤律氏と宝塚山中で、会見したという、神戸支局のスクープが、デカデカと報道され、警察もGHQも驚きますが、当時の法務府特別審査局のこの記者の任意聴取により朝日新聞記者の捏造記事と判明、朝日新聞神戸支局長始め、記者等も退職処分され、朝日新聞は天下に大恥さらしました。半世紀経った今現在もこの新聞社の体質は、変わっていませんねえ。DNA恐るべしです。
伊藤律氏会見記捏造朝日mc

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