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戦後日本初運航の民間機は?

「敗戦」日本というべきを柔らかくも「終戦」、更にその武装解除・占領に上陸してきた「占領軍」を「進駐軍」と呼ばわしめたのは、他ならぬ「大政翼賛」「挙国一致」「前線と銃後」「学徒出陣」などを造語して、軍部と連動して戦争を煽った希代のオピニオンリーダー、元ジャーナリスト徳富蘇峰翁と呼ばれた爺さん。
その「終戦」後は、「進駐軍」のGHQによって日本の航空関係の一切の活動が禁止されていましたが、「占領体制」から、日本政府による自治への講和条約規定での体制移行(昭和27年1月・日米行政協定締結)を前に、昭和26年10月に民間航空の再開許可が出ますが、更にそれよりも一歩先んじて、読売新聞社によって「チャーター機の使用による」「終戦6年記念」みたいにして招待客を乗せた、民間機による日本一周飛行が行われました。
c46cat B-848
台湾の中華民航・CAT航空からチャーターした垂直尾翼には国籍「中華民国」マーク、そして機首の両側には、小さいながらも日の丸マーク。当然機体マークは台湾B-848の識別マークのママの「よみうり平和号」、機体は、米国・カーチスライト社製C-46型2000馬力エンジン双発3翅ペラの「コマンド」旅客機でした。
昭和26年8月15日第一日目、招待客30名を載せて羽田を離陸、羽田~札幌~千歳(着陸)~釧路~帯広~函舘~青森~盛岡~仙台~福島~郡山~宇都宮~羽田(着陸)~大島~羽田(着陸)の飛行コースで約3000km飛行したのでした。
更に第二日目別の招待客30名を載せてこの日は、 羽田~横浜~静岡~浜松~名古屋~京都~大阪(着陸)~高松~広島~福岡(着陸)の約3000kmを飛行し.これで計画通りに2日間で日本上空の一周飛行を行なったことになったわけでした。
このC-46のエンジンは、レシプロエンジンでは、民間機に使われた最大馬力で1940年から供給使用されて、7000m級の高山が聳える南米アンデスも軽々越えることが出来、南米の国々中心に多くの機体が使用されたようです。日本の駐留軍も輸送機ように相当数保有し、軍役後民間に払い下げた機体もあるようです。航空自衛隊も戦後の改良型4翅ペラのC-46Aを何機か所有し、用済み後の機が、自衛隊カラーのママ、浜松基地や美保基地に展示されているそうです。
mihoc46a.jpg
Curtis Wright社は2010年にこの機体の70周年を祝っています。
Maid in Japan 70anny
このときの展示機体が面白い、Made in Japan,,、ならぬ、[Maid in Japan]のネームとマーク入の機体を使ったようです。
このこともあってか、10月のGHQ許可で、日本航空が設立され、短期間で機長は米国から借り入れることで、日本の上空を日本航空の国内だけ線が、飛ぶことになりますが、折悪しく、隣の半島が南北激突戦争に中共軍も応援参加してきて米軍が気が立っていたようで、日航国内線定期運行始まって半年後のJALのもくせい号が、風雨の中で、進路を誤って、伊豆大島の三原山山頂近くに叩き付けられて遭難します。米軍は操縦士とコントロールタワーとのやりとりなど一切の情報を開示せず、後に、松本清張氏が、1952年日航機「撃墜」事件を出版されたように、謎のママふたは閉められました。
もくせい号もくせい号遭難
松本清張日航機撃墜事件
このもくせい号で遭難したのが、悪評紛々のそろばんチャチャのトニー谷と双璧の人気の漫談家、大辻司郎が亡くなっています。
もく星号墜落時には情報が錯綜し、「一部(もしくは全員)の乗客が救助された」という未確認情報も流れたため、現実にはあり得ない「危うく助かった大辻司郎氏」の談話が捏造され、写真付き記事(「漫談の材料が増えたよ――かえって張り切る大辻司郎氏」との見出しが付けられていた)として地方紙『長崎民友新聞』に掲載されるという事件が起こって、却って、その痛ましい遭難が、忘れられないモノとなりました。
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