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広島、ピカドンに枕崎台風の追い打ち!「山津波」の教訓

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広島、原爆の投下前後の、爆心地照準カメラのbefore/afterだそうです。同心円の中心が爆心、、、実は、エノラゲイに命令された、リトル・ボーイ投下の目標は、爆心のちょい左上の川にかかる相生橋だったのだそうです。左が照準カメラ、右は、事後の、偵察機の偵察カメラのようです。ピカドン後はなにもなくなったように見えますね。橋は残っていますがお城は跡形もない。
憎っき敵の雑誌に見えるEnolaGay機の写真と広島の焼野原の写真です。
エノラゲイと広島焼野001

広島にピカドンと1発でなにもなくなった、、この新型爆弾、、、スは一大事と軍部は泡喰います。4-5日して、中国軍管区司令部から京都大学に秘密裏に、この新型爆弾に被害状況、及び、一発でこの被害を及ぼすに至った全貌の総合調査の命令が下されたのでした。まもなく終戦、しかし京都大学は先遣として2-3人の先生を送る一方、医学部教授2名と医学班20数名の他、医療とは別に、教授陣、研究員助手の他大学院生全員と学生数十名の総合調査班を結成して、9月3日以降順次送り込んだようですが、逃げてしまった陸軍との意思疎通を欠いて、なかなか宿舎が決まらず、総員が広島地区に入ったのは9月16日になったようです。この殆どが、佐伯郡大野町(現・廿日市市)の陸軍病院に泊まり込んだ矢先に、後に「枕崎台風」と名付けられる、、強烈な台風が暴風雨を広島・呉地区にもたらし、住み込んだ翌日、まさ土山の裏山が、当時は「山津波」と呼んだ山崩れを引き起こし、呉地区では広範囲に、1000余名の死者行方不明者、広島では、当の大野陸軍病院(写真before/after)も崩れ去って100余名の死者行方不明者を含む2000名余の人命が失われたようです。更に、広島周辺だけで実に20の橋梁が、流されるという大被害でした。、
大野陸軍病院山津波前old_genbaku_1京大調査班遭難大野陸軍病院
京大調査班の大半が死亡・行方不明となり、2名の医学部教授もなくなったのでした。
原爆に続くこの枕崎台風の追い打ち、広島地方気象台員は、終戦後の8月27日から、瓦礫と化した気象台から、海岸に近い仮台舎に移って気象観測を始め、この台風の来襲の間も懸命の観測予報勤務を続けた、この涙ぐましい不眠不休の記録を、後に柳田邦男氏が、ドキュメンタリー「空白の天気図」にまとめておられます。
表紙のドーム枕崎台風進路
台風の天気図
文字通り、"災害は忘れたころに来る"、、、枕崎台風によるこの京大調査班遭難の、広範囲「山津波」災害、更に橋が20も流された大被害、、このことが全く教訓にはなっていませんでしたね!またも今年大勢の人命が失われました。悲しいことです。教訓が生きないのは何とも情けないことです。
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