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アマチュア無線を書き捲った記者、その後!

WEBの本屋さん、Amazon.co.jpで検索してみると、この50年以上前に上梓されて、当時の皇太子さま(現・今上天皇)に初号印刷された第1号本が献上されたという「日本のハム」角川新書:小林幸雄著の古本は探してくれそうですね。

この人、小林幸雄氏は当時の朝日新聞の社会部記者でした。40年後の2001年私は、この人のことを書くために、消息を知りたかったのでしたが、この方の家に入り浸っていた、西武クラブのJA1KCはとっくの昔、親友荒井君と交通事故死、JA1IO/この本ではJA1BBOの暁の名SWLも日進堂パン店火災で失明後の消息不明でやむなく朝日新聞社会部に電話して、小林幸雄記者のその後、をお尋ねしましたが、福岡の九州本社へ行かれたまでは解りましたが、福岡支局時代の40年前のことをご存じの方があるはずもなく、退職されて大野城市にお住まいの確か大橋さんと記憶のOBのかたの電話番号を教わり、電話してお聞きしたら、「社会部の?福岡にきて間もなくして直ぐいなくなったようだったね、新聞ではその後名前を聞かなくなったし、福岡で付き合っていた部下もあまりなかったから殆ど名前が出ることがなかったね、多分、亡くなったんじゃなかつかね。訊く人もおらんとやし、判らんと!、、」で途切れました。西武クラブの一人と2mのQSOでも、それを後押しするように、確か癌でなくなったと聞いた様に思うと言われましたし。
JA1KCチャックの訃報は、1週間ほどしてCQ出版社小沢社長から直々電話で知らされましたが、猛烈なショックで、10年近く紙オペ(免許状だけの)になってアマチュア無線から遠ざかるほどでした。そのことにつられて、この博多弁の電話会話が、小林記者の訃報のように聞こえてしまったのでしょう。

戦後のアマチュア無線史(12):アマチュア無線を書き捲った記者

に、、、
/~此の本には、西武線ハム倶楽部の暴れん坊コンビ、SWL時代に一世を風靡した曉の珍局リスナー小林知司氏、後のJA1IO/引っ越してJA1BBOとJA1AHの実弟で口にチャックが要るからあだ名もチャックの JA1KC,が小林記者の水先案内を勤めている。昭和30年代の終わりに小林記者が病で、40年代の初めにチャックらが車禍で相次いで他界して久しくなり、生前チャックと親しく付き合う機会を得た私が書き残さないと、あまり詳しくは知られていない事件もあり責任重大と痛感しています。生き残ったモノのつとめでしょうか。」
と8年前に書いてしまっていたのです。


しかし、世の中には、WEBに書いたモノには検索エンジンと云う重宝なモノがあり、、、見逃されません。このわずか一行に満たない一言が、小林幸雄さんのご子息の検索エンジンに引っかかり、、、
「親爺は健在で、都内に置いています。直ぐ連絡取るようにします」と云うEーメールが飛び込んできました。奇しくも昭和29年東京に大雪だったと同じ2009年1月の29日ではなかったでしょうか?

この人の消息に敏感なハムが私の他に少なくとももう一人、、、。西武クラブの「青ヶ島」訪問を、離島運用の事前調査で知って、西武クラブのメンバー何人かに会って、逆にこの本「日本のハム」の存在を知らされたという、その後離島でのUHF中心の運用に「リタイヤ後のハム青春」を賭ける人JH1HUK大島譲さんは、この本の「青ヶ島渡航記」にハムと社会の片隅「離島」を繋いだこの記事の功績を珠玉功1級と感じておられるようです。たまたま430メガでお会いしたので、小林幸雄さんご存命で、都内に居られる。暖かくなったらお訪ねする約束になっている。と告げたところ、「離島行脚のもう一つの目的(UHF伝播サービス以外の)をこの本でも触発されたワケで、どうしても探し出したい人でしたし、実は、離島行脚を本に纏めたいと準備中なので、是非,,,」と云う申し出で、小林さんにその旨お伝えし、春の来るのを待っていました。

雨男パピーのアポイントメントの日3月25日小雨そぼ降る霜降り橋交差点からほど近い、ホームに、お元気なアラ・ベイ(アラウンド米寿と自称)コラムニストの肩書き名詞の小林幸雄さんをお訪ねしました。開口一番のお言葉が、冒頭記事で、ご紹介の、「死んでも死に切れん書き様のお陰で長生きさせて貰った礼は言うが、、、」でした。矍鑠として未だ、団地や施設などのミニコミ誌十数紙誌にコラムを持っておられ、執筆活動で、辛口の論戦と一方甘酸っぱい大正昭和一桁ロマンをそれぞれに楽しんで居られるやのお話でした。筆の立つ方は羨ましい。

WEBでは、検索エンジンで、「小林幸雄」検索すると、パピーニュウスの他に、BEACON誌に嶋さんでしたがご紹介の小林幸雄氏執筆の「日本アマチュア無線史」(昭和34年頃の「電波時報」連載)が懸かりますが、小林さんは、この電波時報連載の記事のJARL当時の会長梶井謙一さんの署名入りの
(コピーマシンが未だ無い時代の)写真版青写真コピーを持っておられ、是非コレを有効に活かして呉よ、、、青写真は空気に触れると紫一色になったあと級に消えてしまうから、なんとかコピー保存も考えてくれと、、戴きました。早速スキャナーでなんとか判読できる程度のスキャナー画像にしてPDFにもしています。現在原青写真は大島さんが熟読中です。

肝腎のお話があとになりました。小林さんの消息が九州で煙の如く消えたのも故ないことではないと判りました。福岡の社会部を束ねられて間もなく、東京オリンピックの束ねとして東京総局に呼び返されたのだそうです。オリンピックが一段落して、静岡支局長で金喜老事件などの激務の最中、昭和40年代に入った頃、全国的にVHFテレビ(1~12ch)のチャンネル割り当てがほぼ満配し、新聞社のUHFテレビへの進出の話題が出はじめた頃に、全国の先頭を切って朝日新聞が北海道で、具体化計画を実行に移したのですが、電波界には初めての新聞社で、電波のでの字の判る新聞人がいない、コトからハムの本を書くために電波の判る友人に囲まれたはず!と云うことで小林幸雄さんに白羽の矢が立ち、殆ど隠密裡に急いで北の果てに移り、テレビ事業のいちから勉強しながら繁忙な会社の設立、実務の分担計画の軌道載せの作業と夜を日についでのお忙しさで、大変だったのだそうです。
北海道で、なんとか一番乗りを果たして、ホッとしたのも束の間、競争相手複数出現で、当分編成局長のつもりがUHF1番乗りを旨くやった小林さんに社長を任すから旨く切り回せと云われて逃げられず、社長を仰せつかってしまったのだそうです。
そんなこんな、新聞社系ではあったモノの途中から完全に商売替え、新聞の上では朝刊夕刊とも最後のページの番組ページの端っこにUHF-TVのヒト枠が載るだけの存在となってしまったわけで、同じ地方ならともかく、九州だけを探しても知る人ナシも宜なるかな、、、まさに煙の如く立ちのぼり、UHF-TVの世界に鞍替えして大活躍しておられたのでした。

その困難な業界の先頭を切って、走り抜ける、勇気とバイタリテイーの依って来たるところは、昭和18年の12月でしたか、大学も促成卒業で学徒出陣、、、神宮外苑練兵場で大雨の泥濘の中での合同出陣式の匍匐前進を強いられたことを思えば、これしきのこととなんでもなかったとすまして語られました。大正生まれは、強靱です。しかしアラ・ベイの御身御大切にと願うモノです。
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コメント

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Re: No title

> 昭和29年九州から上京下宿でアマ無線JA1AFQを開局しました。夏休みを故郷で過ごし帰京すると大家に迷惑がられ下宿を追い出されました、困った私は友人を数人尋ねたが留守、、、夜10時ごろ高田の馬場のJA1KC氏を訪ねました1回目は留守、2回目も留守 会社の寮の2階だったと思います、疲れはて彼のベッドに勝手に潜り寝ていると12時過ぎに帰ってきたので翌朝迄泊めてもらったことがあります。本当に良い人でした、あれから60年の時が過ぎておりました、事故で無くなられたと知り残念でなりません。彼の写真があります 貴殿のメールアドレス分かれば送ります では

jarl.com できます、めーるでくだされば、gまいlのめあどしれせます、よろしく。

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