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ドビンワリから、桑の葉まで

尺取り虫で不思議だったのは、子供の頃、夏の電灯に群がる蛾の中に、「ユウマダラエダシャク」という尺取り虫の蛾が来ている、、、とよく兄が言っていたことです。兄は80才を過ぎても山で、チョウチョを追っかけているチョウチョ専門の昆虫少年でしたが、なぜか、この尺取り虫の蛾だけは、気にしていましたね。
yuumadara.jpgユウマダラの幼虫
余談的になりますが、、、尺取り虫は、なぜ尺を採るような、動きするかというと、少ない腹足が頭としっぽに別れていて途中に足がないので、、、間寛平の嘗てのお家芸じゃないが、、、そんな歩き方しかできないんですね。
関西が主力の朝日放送系のTVの長寿番組の一つに、「探偵ナイトスクープ」と言う視聴者からの話題提供や疑問に、探偵を指名して、謎や、疑問を解いて解説しようという番組のようです。先日の「ドビンワリ」は「クワエダシャク」という尺取り虫では一番大きい「大の部」に属し、その名が示すように、桑の木を食草にする蛾の幼虫です。終齢(さなぎになる直前のこと)に近づくと10cmほどにもなり、習性的に桑の枝に擬態することから、桑の葉を摘みに土瓶を下げて来た、桑摘み女が、うっかり土瓶を枯れ枝と思って引っかけると、虫ですから柔らかくて土瓶は落ちて割れる、、、コトから、昔からこの尺取り虫は「ドビンワリ」とよばれていたのです。絹糸需要が、人造絹糸略して「人絹」から、合成繊維に置き換えられていき、日本のお家芸であった全国的養蚕業のおかげで、幕末各藩思い思いの勝手都合による銃砲・火薬硝石などの輸入で、急激に積み上げてしまった西欧諸国に対する旧幕藩時代の各藩の膨大な負債を、明治新政府がすべて肩代わりし、平等条約に糺してから、生糸や絹織物で明治23年10月5日までにすべて完済したのでした。そんなことが出来るほど、日本全国津津浦々には、広大な桑畑と多くの養蚕農家が、戦後すぐまではあったのでした。そのために、日本の地図記号には、わざわざ桑畑記号があったのです。250px Japanese_Map_symbol_Mulberry_field svg

戦後の一大労働闘争のエポックも、近江絹糸によって有名になっています。明治時代の上述の新政府肝煎りの紡績絹布織機工場が、先だってユネスコの世界遺産に指定された真岡の工場などを初めとする、岡谷、諏訪などいくつかの工場だったわけです。
ところで、、、番組に戻ると、このドビンワリを見つけるために、間 寛平探偵は、桑畑を捜すのに苦労します。戦後すでに70年、桑畑は殆ど、消えてしまっています。関西では繭の集散地が福知山にあったことを聞きつけて間寛平探偵は、福知山市役所を訪れ、郊外にたった一軒残る奨励養蚕農家を訪れて、ついにその桑畑で、「ドビンワリ」の枯れ枝擬態に対面することを得たのででした。
どびんわり土瓶掛ける?



関西では、関東ほどもは桑畑がなかったのでしょうかね。寛平探偵は必死こいて桑を捜しましたが、関東多摩地区に近いウチの門の水道メーターは、種播いたわけでも挿し芽したわけでもない一人生えの桑の木群に占領されかかっていますが。
hatakenukesitakuwasuiryoukisoba sc
西東京のウチの庭だけでなく、一丁も離れない道の端や橋の上にも、桑の木は至る所に、雀、ヒヨドリ、椋鳥など小鳥が桑の実を啄んでその糞をまき散らして、実生が生えまくっていますが、、。福知山市役所に行くほどでもないように思いましたね。
hatakenukesitakuwa schasigiwanokairyoukuwa1sc.jpg

日本での桑の葉の改良の記述が残っているそうで、諏訪の2代の殿様が山桑に詳しい家来に命じて、緑葉より若葉色の葉が多い桑に品種改良させたそうです。これにより、蚕の喰い葉がよくなり、結果繭が容積で2割ほども大きくなり糸の品質が向上した上に、糸の採れ具合が一割以上も改善され、真綿残りが減ったとあるそうです。諏訪藩の記述を調べても、江戸時代中期以降の有名事件ばかりで、この改良山桑による養蚕改善のコトは出てきません。
初夏の桑畑

日本の古来楽器である、琵琶の製作について調べているウチに、琵琶用の最高の木材は、伊豆7島の御蔵島で産する「島桑」を措いてないとされるようです。因みに絹を吹き出す蚕が食べるのは、ウイキペヂアにあるとおり山桑だけだそうです。
関ヶ原の合戦で、徳川家康の軍勢に特に加勢したコトで、家康の江戸入城に伴って、関東に行った家来を調べていたら、上野(こうづけ)に出来た、3万石の新しい藩「総社藩」(現在の前橋の辺り、諏訪2代で、諏訪湖のほとりに戻るので消える藩)が諏訪家で、ここの2代さまが諏訪頼水と言って、山桑を改良させた殿様らしい。道理で、諏訪湖のほとりより群馬県の桑が、若葉色で勢がよく、春先からの枝の伸びもいいようで、瞬く間に関東に広がり、関東北部が養蚕の主力地方 となり、明治以降の日本の経済立て直しに力強く貢献できたようです。一方で家康からお褒めいただいたこともあってか、諏訪湖のほとりにお国替えになったあとの3代目以降も、この桑を広めて、関東はもとより、信濃から伊那谷そして中部地方の桑も、この改良山桑になっていったモノと思われます。
モノクロ映画の最後に近く作られ昭和36年春に公開された黒沢映画の名作「用心棒」の冒頭シーン、見事な見渡す限りの落葉した桑畑が出てきます。当時は未だ、こんな桑畑も残っていたのでしょうね。
桑畑30郎
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