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5月 と縁が深い ハレー彗星 関連話

ラジオ少年の前が工作少年、そのちょい前が、兄の影響もあって、天文少年でした。兄が、戦後まもなく、町の眼鏡屋の店先に、望遠鏡のレンズキットが出ていたから買ってきた、おまえ、天体望遠鏡作れるか?作ってくれたら空の星見せてやる、、、もっと見せて欲しいなら、お袋におまえの小遣いから1円80銭返してこい、このレンズキット買うのに小遣い足らんかったからお袋に借りたから、、。この頃は、兄の家来の身分だったからしょうがない、古本屋に旺文社の英和掌中辞典と言う少々薄汚れた辞書が2円あまりで、出ていたので、必死こいて貯めつつあった小遣いだが、にらんだところ対物レンズは、800ミリほど、接眼レンズは、二枚の構成だからうまく作れば、6-8ミリの合成焦点距離、とすれば、倍率は100倍は可能かも、、、。と内心皮算用して、お袋に1円80銭返しに行って、ついでにお袋がためている着物用の反物の巻き芯のボール紙の筒4本を貰ってきた。早速、硯を取り出して墨をすり、巻き芯のうち側にたらし込んで廻して内面を黒塗りする。明日朝からでも、望遠鏡の筒はすぐ完成できる。接眼鏡用の、枚のレンズの焦点距離を、夕日の低い確度を利用して壁との距離で測りついでに二枚で、なるべく色収差も少ないが、短い合成焦点距離を見つけて、物差しに印をつけた。合成焦点距離は約6mm、対物レンズの焦点距離はやはり800ミリだったから、130倍ほどの倍率が期待できるが、惜しむらくは有効口径が僅か30mmでは開口F比は、800/30=F27と、非常に暗いモノになってしまう。けど無いよりは有難い、、、戦後のナイナイ尽くし、、、脱線が過ぎましたが、工作少年面目躍如、ホンの二三日で、133倍の天体望遠鏡は完成しました。
この頃、1947年の12番目の日本の誰だったかと、外国の共同発見の肉眼でも明け方なんとか見えた彗星が、話題となりました。すでにこの頃から、彗星は、発見年次と、小文字のアルファベットa、b、c、、、順記号で示されこの彗星は、1947 l(エル)がつけられていましたが、俗称は、発見者の名前で呼ばれました。一般に肉眼で見える、彗星は発見者の名前で呼ばれますが、ごく少数の有名彗星は例外で、研究者の名前で呼び慣わされたモノがあります。エンケ彗星や、ハレー彗星がそれです。、、1986の写真1986年に回帰したときのハレー彗星の写真です。
ハレー彗星は、古くは秦の始皇帝の時代からすでに、2十数回の回帰が記録され、一人の人間は一生掛かっても一回だけしか見られないために、もしやと気づいた人はあったかもですが、正確に軌道から計算して周期76年と割り出した18世紀の天文学者ハレーの名前がつけられているわけで、発見者というわけではありません。ハレーの生まれた17世紀頃までは、天文学者でも、彗星は放物線軌道天体で太陽に近づくのは一回限りと(現在でも彗星の大半は、その通りであり、ごく限られた係数範囲の速度と、近づき方で、軌道領域が、ある範囲に落ち込むと太陽の引力に負けて長楕円軌道に取り込まれて、周回彗星になるモノがあると考えられるようになってきましたが)考えていたわけでした。ニュートンといい仲になった、ハレーはニュートンの運動の方程式を見ているウチに、放物線関数も楕円関数のウチではないかと気づき、その違いをどうも周回彗星化したと思われるこの巨大彗星の軌道計算で、実証してみようとこの軌道計算を思い立ち、その後の一生の殆どを、それに費やしたわけでした。この彗星が周期76年で太陽を一方の焦点とする楕円軌道で周回する彗星であることを見いだしたのでした。それ以来この彗星には、研究者としてのハレーの名がつけられたわけです。
次の周回彗星の研究がなされたのは、最も周回周期の短そうな、エンケ彗星でした。4年足らずで、軌道の離心率0,86ほどですから、かなり円に近い楕円軌道で今も最も周期の短い彗星の代表です。望遠鏡や、写真儀の発達した現在では、周期中見失われることがない彗星といえましょう。enke 1
エンケは又尾の短いことでもかなり特徴的です。
これに比べると、ハレー彗星はその周期が、現在のヒトの平均寿命に近く、一生に一度、見るチャンスがあるかどうかと言うほどの忘れた頃に来る、しかもかなり顕著な肉眼彗星でしたから、歴史上でも、いろいろ話題を提供して、幸い記録が残った、と言うわけです。ヨーロッパでは、唯一、11世紀にイギリスが、フランスの征服王ギヨームによって征服されたときに不吉の印として現れ、、、現在もノルマンデイーバイユーのミュゼに、このギヨームの妻の54mに及ぶ刺繍布(タペストリー)の、物語刺繍絵のポアンテの一つとして、奇妙な尾の彗星として残っています。baiyoタペストリー
日本でも文明開化し、しかも、日露の大戦に多くの犠牲払いながらも勝って提灯行列から5年、、、1910年は明治43年、の五月にながーい尾を引いたハリー彗星がやってきて、彗星の近日点近くで地球と大接近、地球がその尾の中を通ることになると言う、、、日本の天文学はまだ幕府の天文方からそれほどの進化を遂げていない時代。蒙昧なマスコミは世界のおもしろくも怪しい記事を輸入して書き立てて、我が新聞を売らんかなの体制です。調べても良く判らんのが、アメリカのアンドリュ教授の彗星のしっぽは水素炭素窒素からなるからシアンガスを含むはずで、人間も生物も死に絶えるかも知れない、、。又別の大新聞は「火星の運河の夏冬の移り変わりを研究した天文学者フレンマリオン氏は・・・(中略)・・・尾の内に含まれる水素が地球の空気中に存在する酸素と化合すれば、人類は皆窒息して死滅する。もしまたこの反対に空気中の窒素が減ずる場合には人類はいきおい狂気の極に達し、踊ったり跳ねたりして、ついにやはり死滅せねばならぬはずだと述べた。・・・・(中略)・・・・ハレー彗星の太陽面経過が我が国の真昼間に起こる以上、欧米の各国にあっては、この現象があたかも夜間に属する勘定。したがって欧米地方は裏側ないし横側から包まれるるわけで、頭上から直接に遣らるるのは我が国をはじめ、アジアの東部、豪州、マレーの方面のみといわねばならぬ。 」などと書き立てていたわけです。
当時の読売新聞の手描き図による、そのハリー彗星と地球の太陽との相対位置図を、引用しておきましょう。
yhalley02読売1910ma
ともかく、この五月前から、各全国の地方新聞まで、ハリー彗星の尾っぽで、地球人類は特にアジアでは人類は死に絶えるかも知れないと、、、書き立てたのですから、、、漫才師人生行路なら「責任者出てこい!」モンデスわな。死ぬるんは怖いコタア無い、遊郭花柳界で財産はたいて居続けショウかというモノまで現れるという始末。実際このときのハレー彗星の尾は、火星軌道の近くまで伸びていたと推算されたのです。日本では5月20日に彗星と太陽が一直線上に並ぶとき真っ昼間で、太陽面通過が見らたはずのようですが、彗星とは、実質は小さなモノで記録などは残っていないようです。
書き立てられたようなことは、実際何の科学的根拠もなく、従って、何事も起こりようはなく、、日々こともなく移り人々には、忘れ去られたわけですが、
このハレー彗星の置きみやげは、何もこの1910年の大接近との関係ではなく、地球軌道と、ハレー彗星軌道の交差点の関係で、毎年五月のゴールデンウイークの直後の、6日7日頃の夜明け前、みずがめ座η(イータ)星に輻射点を持つ流星群を残しています。今年も結構見られたと言うことです。
aqr1mizugameza.jpg
この騒ぎのおかげをもっていって一回りしたせいか、1986年に回ってきたときのハレー彗星の尾っぽは期待したほどの盛大さはなかったでしたね。その上に、帰りしなに、土星の軌道をちょいと過ぎた辺り、もう観測もママならぬ辺りで、原爆ほどモのエネルギーと思われる光度の突然変化をしたようで、土星の衛星ではない何物かと衝突したか、、、と危ぶまれているようで、この次の周回の2062を待たないと何事が起こったのか判らないのだそうです。気が遠-くなる話ですね。
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