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故・朴正煕大統領に関すること

記憶の奥底にあったので、調べてみました。私は幼稚園時代、お調子者で、ふざけすぎの悪戯っ子、お寺の児童園でしたが、蛇を振り回して、手が滑って、蛇が、焼け焼けのトタン屋根に飛んで、じゅーっと焼けて伸びてしまい、、、2-3日して、篠突く夕立に流されて、庇に落ち、丁度おなご先生がお手洗い手水に手を伸ばしたときに運悪くしっぽがだらんと目の前に下がって、、、おなご先生が気絶するという事件になり、我が家の筋向かいの朴ミヨ子という真っ正直な女の子の、いつもの進言により、私のお寺のおける畜生殺生は、とても悪いことでなおかつ、お寺さんのおなご先生、が今度で2度目の、気絶、、、。みんな、ヒム君のいたずら、、と云うことで、この児童園は、夏休みのあとは、もう来なくてよろしい、、と退園させられました。この朴さん一家は、みんな働き者で、正直一家、人知れぬ小さな善行数知れず、、、時の町長さんから、表彰状も貰っていた一家だったんです。日韓併合から、30年になろうとすることで、韓国から働きに来て、学問も出来て、家族幸せに暮らせる、こんないいことがある以上は、せっせと働いて、真っ正直で、居なければならないというのが、この家族のモットーで、ミヨ子ちゃんもそのモットーに従っていただけで、悪いのは、お調子者の自分、、、全く、ミヨ子を恨む気はありませんでした。見習わねばならなかったんでした。
それから2年も経つか立たないころか、新聞でもラジオでも、併合で日本国民になった以上は、お国のために、、と、日本の士官学校にどうしても行きたい!、自分は、募集年齢より大きくなってしまったけど、国のために尽くしたいと、嘆願書を血書して、差し出した、朝鮮の慶尚北道の小学校の先生、当時の訓導、が名乗り出て有名になったことがあります。
新聞も引用してありました。拝借します。
220px-Park_Chung-hee,_Manchu_Shinmun (1)
渡来家族の朴ミヨ子ちゃんのお陰で、児童園中途退園喰らったセイもあって、この青年の朴さんの名前も、頭には入っていました。
何十年も経って、世の中移り変わり、私は戦時中の中学入学で、敵性語とされて基礎英語が半端なもンですから、英語以外の外国語を注力勉強した甲斐あって、会社内でもドイツ語韓国語なら、1-2を争う地位にあり、30歳代の後半、韓国合弁社の仕事を仰せつかり、渡韓しました。大統領は、クーデターで、空軍少佐から大統領になった朴正煕、この名前が何か引っかかるとは思っていましたが、小学校低学年時代の記憶にしっかりした自信はありませんでした。
当時のソウル空港は、金浦飛行場でしたが、ここから、市内テーゲー路のホテルに着くまで、「看板のハングル文字読めますか?」で読むと、正解も多いが、大笑いされることも多く「韓国語にはリエゾン発音がありますから、銀行は、ウンヘンでなくてウネン、電話はジョンフアでなくてジョナなんです。あとはよく勉強しておられますね。あしたから一人で工場に行ってください。」にはびっくり。本当に翌日から、一人で、仁川の富平区の高速バスの停留所から、歩40分の畑の中の工場に、一人で地図を頼りに行かされました。「途中に高速道の陸橋の下に、婆さんの居る、何でも店がありますから、そこで、弁当買って行ってください。婆さん日本語駄目ですから、韓国語でやってください。」、、、。
工場には、日本語の出来る、申係長と、ユン君という作業員が居ましたが。昼休みに、みんなでストーブを囲んでの弁当タイム「ひむろさん、あそこの婆さんの店の弁当ですね、それにお土産のリンゴ有り難うございます、なんと言って買ったんですか?」まあ、正直の答えると、フムフムで済むときと、大笑いされるときと、半々、みんな、音便上の問題でした。結論的には、工場で、日本語なしで行きましょうと。このお陰で、非常に早く、工場全員とうち解けることが出来ましたし、本当に3ヶ月後には、一人でユーザー廻りして集金させられました。当時は、逆ざやで、日貨百円が75ウオンの時代でした。金利が非常に高く、ヤミ金利最高が、年36%と云われ、借家の家賃は、大家に110萬ウオン渡せば良く、月々の家賃はその金利ででるのだという家を借りてソウル市内に住んでいました。
そんなころに、ある、飲み会で、「パクチョンヒ」と「ユクインシュウ」(陸英修)
とどちらが男の名前でしょう?、、と云う謎かけみたいに訊かれ,,, 英修だろうから、「そりゃあ、いんしゅうが男でしょう!」と答えたら、大統領夫妻でしょうが!と叱られてしまいましたが、このときに、上記の新聞の、血書志願の青年訓導の名前がどうもそうだったとの確信を強くしました。、
その後、この青年は、戦時中の創氏改名に際し、高木正雄と名乗ったはずと云うことも大衆雑誌で読んだことも思い出していましたが、韓国のヒトには、いい印象のことではあり得ないと黙っておきました。

又時が経って十数年後、今度は台湾で走り回っていました。半端な北京語で。、、電解銅箔の工場を合弁で造り、、、
そんなある日、三峡のT電路という客先の趙雨廖工場長と先方、流暢な日本語で雑談、韓国の朴大統領が、台湾に2度来たことがあり、、、。趙さんも、満州吉林に昭和17年に出来た帝国両陸軍士官学校卒だそうで、朴君とこの士官学校で、一緒だったそうで、共通語は日本語で、付き合っていたそうで、朴大統領はとても三峡などに来るはずもなく、一回目はお土産だけが後日届いたそうですが、二回目は、台北に呼び出され、士官学校で一緒だったモノ6名と酒卓を囲んだそうです。朴君は、日本語が思い出せない台湾の旧友に親切に日本語を教えていたそうです。紹興酒が、口に合わないと、スコッチに切り替えたあと、思い出して、「済みません、済みません、」と平謝りに謝っていたそうです。酒が回って、昔も吉林で聴かせた美声で、「とらじ」を唄いながら一舞い、韓国舞踊を舞ってくれたそうです。♪とらじ、とらじ、㌧、とラージ、、、エイ、ヘイヨオウ、エイ、ヘイヨウ、、、、。と。

昭和18年、もう米潜水艦が朝鮮海峡まで跳梁していてとても日本本土までは士官学校といえどもいけず、吉林にその前年作られた、日本・満州両帝国陸軍士官学校に、故・朴正煕大統領も、その旧友 趙雨廖さんも、吉林での教育だったのだそうです。

Wikipedia朴正煕(クリックしてください)でも見られますが、農村部貧困家庭の末子であったことは、朴正煕のメンタリティーを考えるうえで重要な要素である、と脚注されているとおり、実直きまじめな、当時の田舎の人々の代表的な青年であったことが偲ばれます。



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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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