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北京原人に因んで、思い出すこと

私の小学校時代は、昭和13年上学、早生まれで、男女混合組、4年生になるときに、学制改革で、尋常小学校が廃止になり、国民学校に横滑り、国民学校4年生に、なりました。昭和16年、風雲急を告げ、6月に日米通商条約破棄、7月米国からの石油鉄鋼などのすべての輸入が止まり、、、それでも、うちの親父は、ここ3年間で、年寄り爺婆3人を野辺の送りしたことを親戚の多く住む東京からも多く参会者があったことを受けてお礼廻りをしておかねば!と、夏休みに兄と、私を同道して上京したのでした。、、叔父が鉄道省に勤めていたので、親族割引が効く規則が戦時特別規制法で厳しくなる、と云うこともあったようで名古屋を発車するときには、「次は横浜ーァ」という特急ツバメでしたが(友人によると、当時は未だ、電化が東京沼津間のみで、必ず沼津で蒸気機関車から電気機関車に付け替えたはず、沼津で停車しないはずはない!と一蹴するけど、、、私の記憶は!です)何とはなしに、急な旅立ちでした。平和な家族にとって、なにやらあわただしいモノは確かに迫ってくるような雰囲気は感じつつありました。その一つが配給制度で、もうこの頃から、東京へ行くなら、外食券と、味噌と米は持って行け、と云うことで、兄と私は、まあ体のいい、「運び屋」でもあったのでした。NHKの朝ドラでは、昭和16年や17年でも配給というモノの、近所の子供呼んでは、食事一緒にさせたりおごったり、とてもそんな悠長な食糧事情では既になかったのでしたよ。そんなことしたら呼んだ方も呼ばれた方も「非国民」呼ばわりされた。NHKの考証さんョ!何考えて居なさる?又、もっと洋服は大事に着て、家へ帰るなり脱いで、ブラシかけて衣紋掛けに吊し普段着の着物に脱ぎ代えるのが庶民の一般的日常の生活、、、。戦後の、昭和30年代の前半までは、そういう、昔からの日常の些細な習慣が、非常に忠実に小津安二郎監督の映画の隅々にまで克明に描かれて居るのに、勉強していないのだ。手抜きで高い給料貰っていやがる。
そんな年の12月の8日に親父にたたき起こされ「戦争が今度は米英まで相手だぞ!米の飯も食えるやどうやらわからん様になるぞ!と胴突かれて眠い目擦って、小国民の一員として太平洋戦争に突入していったのでした。
丁度この頃、大陸北京では、その10年ほど以前に、周口店で斐文中に依って発見された40万年ほど前の、前石器時代のごく初期の、直立猿人とも少し違う直立人類の、頭骨3個の破片が、北京のさる研究所から戦争を避けるためにアメリカに持ち出されることになっていたようです。
この貴重な、北京原人の頭骨は、米軍海兵隊の基地のある秦皇島の港でアメリカのプレジデント・ライン汽船会社の定期貨客船「プレジデント・ハリソン号」に積まれるべく米海軍海兵隊によって北京から内密に持ち去られたようです。
当時は、米国船「プレジデント・ハリソン号」の写真、後にロカクされて,日本の輸送船に改装されて「勝鬨丸」となった船です。
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北京の協和医学院の研究所には、人類学の当時の一方の雄、F.ワイデンライヒ博士が、オヤトイ教授で、研究指導しておられ、当時から10年余前に、斐文中らによって発見された、直立猿人とは少し違ったこの北京原人は明らかな、自分で火をおこし、石器などの自身で作った道具を使う、石器時代のごく初期の、サピエンスではないにしてもホモエレクトス、直立人類であるとして研究を進め、詳細な測定図面とスケッチの他、粘土型まで取って、ドイツに送り、ほとんど完璧な、レプリカがドイツから送られてきていたようです。
中国のネットから、謝意を表して、写真を拝借します。
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戦争が始まりそうと云うことで、木箱に収めた頭骨ホンモノを、米国陸戦隊に預け、秦皇島の基地から、プレジデントハリソン号が、来るのに積み込む予定であったが、その前に開戦、日本の占領軍が乗り込み、米兵は這々の体で、逃げるモノ、降伏するモノに別れたようです。しかしハリソン号は来なかったのです。
開戦の12月8日朝、ハリソン号は、未だ揚子江の河口の北に居て、偶然、日本の汽船、長崎丸を交わし損ねて、擦り加害、その操作の弾みで座礁、航路はずれを航行加害の廉で、捕まったあと、結局戦利拿捕。船腹補修の後に日本の所有とな
ったようです。日本名勝鬨丸となってからは、本土ー台湾航路の定期船として働き、終戦近く、海南島のフランス人を含む外人捕虜らを迎えに行って、米潜の攻撃で500名を載せたまま撃沈されたようです。
それなのにああそれなのに、秦皇島の無血占領後の警備を承っていた、憲兵隊は、ドイツ・アメリカ側がひた隠し内密機密理に運ばれて、係わるはずもない北京原人の骨を、持ち去って、日本まで運んだろうと、アメリカだけでなく、盟邦ドイツにまで、クソミソに疑われたのです。
ここで憲兵隊も、不承不承に、探しまくったようです。戦後、かなり経ってから、当時の憲兵隊の機密文書が発見されて現在では、国立民族博物館研究部の手で電子文書化され、「北京原人骨の行方]として公開されています。(紫ピンクの字をマウスクリックしてお読み下さい)
この公開されている、国立歴史民俗博物館研究部の春成秀爾氏の資料研究報告は、この事件の報告と共に、ワイデンライヒ博士の協和医学院における研究指導についても、又、ワイデンライヒ氏が、開戦の1年ほども前に渡米していることなどについても調査しておられ、研究所内での助手等の疑惑的挙動存在、又、米海兵隊員の証言についてもふれられているし、、、更に、独・米が日本が持ち去ったと疑惑を起こす元となった、当時の日本人の行動等についても良く考察されていて、コレはコレで実に立派な、一つの読み物としてとても興味深いモノです。、
それにしても、盟邦ドイツと云われていたドイツの日本への疑い深さは執拗で、、どうも、文部省の管轄で、地方の小学校あたりの理科準備室に隠したのだろうという想定の下に、日本語のうまい、ひょうきんさと器用さを併せ持つような、ドイツ人を捜し出して、日本に送り込んできたようでした。当時は日本側ではそういうこととは全くわかル筈も有りませんでしたが。
昭和17年の夏休み過ぎか直前か、津島第二国民学校にも、ある朝、3尺ほどの長細い木の箱を緑色の大きな風呂敷にくるんだ奴を、、一人で肩に担いで、やってきたドイツ人がありました。全校生徒を校庭に集めたあと、朝礼台の上で自己紹介し「自分はドイツ語を話すドイツ人だが、日本語も話す。他に5カ国語も話せる。しかし今日は、日本の子供たちに、このミイラ、子供のミイラだが見せようと思って、担いできたのに、あまりの暑さと湿気で、箱の蓋は取っても良いが、布巻きを解くと、とても臭いがきついので、今日は、フタだけで勘弁して貰う。損代わり、お話をしよう。日本の子供たちは、日本の昔話が好きだろう。ドイツでも子供は皆同じ、グリムの童話や、ネズミを笛で誘って、川の中まで、連れて行って溺れさせた笛吹の話なども、みんなよく知っているよ。でも今日は、理科の実験好きの、「ミケロのミケロ」という子供のお話をしよう。と云って、30分ほどの長い話をしましたが内容は良く思い出せません。「ミケロのミケロ」という題名だけはなぜか不思議に忘れられません。話し終わって、僕らの組の伊藤博信君が、「ドイツ語で、日曜日はゾーンタークやったかな?博多ではドンタクやが!」と大きな声で言ったら、そのドイツのオッサンが、「よく知ってるね、その通りゾンターク、オハヨウは、グーテンモルゲンと云うんだよ。ところで、君たちのこの学校には、ミケロの実験室のような理科の準備室があるのかな、あとで校長先生に聞いてみよう。」と云ったのがどうも気に引っかかっていました。
戦後かなり経ってから、ドイツは、北京原人の骨が、キット田舎の小学校の理科の準備室などに隠されたに違いないと、このミイラを担いで廻ったスパイを日本に送ったのだと、、、ものの本で読んで、畜生、どこまで疑り深い奴らだ!、、、。とこのオッサンと、「ミケロのミケロ」のことを思い出しました。
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テーマ : 雑学・情報 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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