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江戸の名残の水路交通は震災と戦災のがれきの犠牲

東北大震災や、大島土砂災害の何千万トンと、何万トンのがれき処理は、現代の環境保護の見地から、大変な難事業になるわけですが、、、。関東大震災で倒壊した上に焼けまくった、35区になる前の東京市時代のがれきは、どう処理されたのでショウね、殆どが海と近くの水のよどんだ掘り割りを選んで埋め立てられたようです。水が干満で入れ替わる水路が残されたのは、後のためにダブルに良かったようです。がれきが他の水路に流れて汚したりじゃましない、のと、よどんだ水たまりが、そこが陸上道路になって、汚水のどぶ臭さから解放された住民は大八車や、オート三輪で、物資まで運べるようになったからです。つまり、水路をきちんと埋め立てると、結構広い道になったのでした。
ところが、第二次大戦末期の戦災後のがれきは無秩序に、軍の命令によって、もっとも手近な川や水路に無差別に投げ込まれ、「大川の褌」じゃないが、流れるモノは流れまくり、杭に掛かって離れないモノは離れないが、そこはお構いなし、半端に埋まってしまい、戦後直ぐには、江戸時代の交通用の水路という殆どの水路の水が流れなくなって、水が停滞し腐って、メタンガス発生池のなってしまったのでした。
そのさまをご覧になりたい方は、戦後昭和20年代にロケ撮影された劇場映画で東京・下町のシーンが出てくる白黒映画をご覧下さい。黒沢映画だけでも「酔いどれ天使」「野良犬」、、そして当時は、未公開で、お蔵に入ったままだった「醜聞(スキャンダル)」などに、メタンガスがぶくぶく、、、が良く撮影されています。ロケ・シーンがそのまま当時の記録です。
閑話休題。江戸時代迄の物資の輸送は、四つ車禁止「御法度」でしたが、川船で30石以下の舟は、無届けで建造可能で物資の運搬は川船で、水路が一般的でした。又、人間の乗りものタクシー代わりの船は、チョキ「イノシシの牙・猪牙」と呼ばれた細身の先の尖って抵抗が少なく早く漕げる軽い舟でした。陸に揚げた物資の輸送は、江戸時代もかなり経ってからですが2輪の大八車が開発されて10年ほどの間に江戸御府内だけで2千台以上の普及を見たようです。江戸当時の道幅は狭く、米俵を横積みした大八車がやっとすれ違えるだけの道幅の通りが多かったようです。もちろん2輪の牛車や、馬の背の荷駄馬もありましたが、、、生き物はえさ代がかかる、その分大八車は、割安感、というわけでした。
東京都で、古くから区名の、、、近未来に磁気浮上列車の始発駅にもなろうという品川、いつ頃から、この品川という、地名があったかというと、どうやら鎌倉時代にはもうあったようです。品川姓の侍が侍を捨てて、ここに荷揚げ場を作り、北からの海産物や南からの物資を、この後に目黒川と呼ばれるようになる川の河口近くの荷揚げ場で交易できるようにしたらしいのです。名前がそうだった説と、単に品物の荷揚げが出来る川で品川だとする2説があるようですが、とにかく、広いことではだった荏原区の名は消えても、品川区の区名は残った、、、という名前運の強さ。リニヤーカー時代までその強運を持ち越すようですね。
思えば私が、昭和25年上京して神田付近に住み着いた頃には未だ鍛冶橋の下には雨が降ると、半分がれきで埋まった川が細々と流れていましたが、この年の夏過ぎには、完全に埋め立てられてしまっていました。現在、神田鍛冶橋は名前こそ残っていますが、橋も川の影も形もありません。
昭和25年の6月引っ越して、目黒区の宮前町の氷川神社の鳥居前の川向こうの角の家の川側の離れに下宿を移リましたが、この名も無き小川は6月という季節もあってか、結構な水量で、きれいな水が流れていました。梅雨が明けた7月始め、この小さな名も無き石橋風のコンクリート橋の上で、驚いたことに、当時喜劇映画の一方の旗頭、柳家金語楼が、浴衣姿に麦わら帽姿で、この川に釣り糸を垂れているシーンのロケーション撮影が行われて、びっくりでした。他に、昭和30年代になって、ある劇場映画、東京映画作の題名は失念しましたが、木村功と津島恵子が出演のを見たときに、月夜のこの川の畔を二人が語らいながらそぞろ歩くシーンがあり、この小川がまだ健在であったことを知らされました。その後まもなく、暗渠化されて上は道路になったようでした。当時は川のフタを開けておくと、ゴミの捨て場になってしまうご時世で、蓋をせざるを得なかったようで全く残念なことでした。
こうして、、、戦後直ぐまでは、未だ自然や昔の面影が少しは残っていた東京も、都市計画が中途半端で顧みられずに1964オリンピック誘致で「何よりも急ぐこと」とばかりにひっくり返り、「オリンピックは錦の御旗」で強引な道路工事家の立ち退き等も罷り通って、あっという間にずいぶんと自然も、昔の面影も、遠く酷い土埃の彼方に失せていってしまいました。「戦後のどさくさ」+「オリンピックの錦の御旗」で加速したようでした。
戦後の失われた自然の、もう一つの事件を、書き留めておかねばなりません、これは、今の23区東京都区内ではありませんが折角奇跡的に残った昔の面影のままの自然が人為的に急に大きく失われた事件といえるでしょう。
戦前も、武蔵野は、士族・華族どもの集まりの明治新政府では、はじめは開墾にどうしたらいいか判らず手もつけかねて
えい面倒と、、荒れ地のまま、公有地を売り出してしまったようですが、水源が無く荒れ地は荒れ地のままでした。唯一武蔵野の雑木林がまとまって残っていたのは、元将軍家直轄の大切な、現西東京市と小金井市と武蔵野市の3市にまたがるお狩り場、大政奉還徳川没落後は、多摩丘陵地のお鷹場と共に、皇室御料地になっていた武蔵野御料林だけであったのでした。これが、戦前古い日本歴史の認識、神代も咥えて混ぜこねた、皇紀紀元2600年という、皇室国民総揚げのお祝い、昭和15年(660年さばを読んでいたので西洋紀元1940年)の記念に、皇室から、東京府民にお下げ渡しつまり御下賜賜ったのでした。豊多摩郡の武蔵野町、武蔵小金井町、田無町(後に保谷町新町移管となる)が受領したようです。戦時中は「御下賜記念武蔵野樹林」と呼ばれて広大且つ巨木の密生し狐狸ウサギ鼬鼠数知れぬ小鳥たちが群れ遊ぶ武蔵野樹林が保たれていました。
敗戦、「無条件降伏」です。勝った方は何をしてもいい、という時代の敗戦です。占領軍は大手を振ってやってきて、US Armyの兵士たちは赤羽の旧陸軍連隊跡に収まりきれないソルジャークラスは、大井鮫ヶ州に半円鉄パイプでカンバス貼りのいわゆるカマボコ兵舎を幾十棟と建てて居住、高級将校は、将軍名のついた、代々木練兵場跡にはグラント将軍のグラント・ハイツなど、当時の日本人には箱庭を思わせる、立派な別荘村を建ててお住まいでした。今も改訂無く残る日米地位協定という日本を徹底的に見下した協定は、無条件降伏ですから「ぐう」の音も出せません、言いなりです。東京都担当の、工作中隊長から、東京都にご下命、「グラントハイツ等将校宿舎から、車で1時間出来れば40分以内にアクセス可能な東京都内のところに、36ホール・フルコースのゴルフ・リンクを50-60日以内につくれの命令が、GHQゴルフ担当から下命があった、四の五の言わずに直ぐ候補地を上げろ!と。この無理難題の注文条件では、4の5の云わずに候補地に上げられるのは、当然の如くにこの「御下賜記念武蔵野樹林」を当てるしかない。こうして、若干の起伏のある方の約半分以上が、現在、名門コースといわれる、元駐留軍将校専用ゴルフコース「武蔵小金井カントリー」に切り開かれ、20%足らずの樹木が残されただけで、あとの2千本以上の巨木と雑木林が無惨にも一挙に伐り払われて、米陸軍工作隊の重機が走り回って、現在のここのコースが形造られたのでした。
唯、残った半分足らずの樹林も無事かというと、必ずしもそうではありません。廻り3市の協議はあるのでしょうが、つい先年、愛犬家たちの要望だと云うことで、かなりの面積が伐り払われてしまって、広大なドックランになってしまっています。お犬様のご威光が、占領米軍に成り代わってしまったのでしょうかね。

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