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東京府と東京都のはざまで、東京市は?

明治2年版籍奉還によって、3府302県の数の藩籍が、県と一応されて、、、2年後の、明治四年までに、統合集約されて、72県まで、減らされましたが、大きな、隣近所の知らない藩だった部分迄の掌握統括の出来る度量に勝れた人材に欠け、知事の選定問題からの頓挫だったようです。あっという間に新時代の年が過ぎていき、明治11年、太政官布告により、「郡区町村制編成法」が各府県に次々施行され、東京府には、10月6郡の確定と、と新しく15の区が設立されています。藩幕政時代から郡は存在していたので、ほぼそのままでしたが、東京府には、南足立郡、南葛飾郡、荏原郡、東多摩郡、北豊島郡、と南豊島郡の計6郡(多摩地区の郡部はまだ、すべて神奈川県でした)と、麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所と深川、の合計15区が設定されています。11年後の、明治22年5月1日に市町村編成法が制定施行され、東京府のうちの15区が、初めて出来た東京市に編成されますが、大きさ区画などは、そっくり維持継続されました。郡部はこの法には関係なしで変わりがありません。
72県だった県は、その前年に、整理統合されて、北海道の3県は消滅1道に統合され残りの県も、ほぼ昔の藩境に従って、統合されて、43県に集約されました。
この頃から、神奈川県の所管だった西.南多摩地区の、自由民権運動が盛んになり、自由党の根城になってきて騒々しくなったのと、、、一方、それ以前に上水道、つまり、東京府民の飲み水の水源がコレラ汚染したり、、、したことから、三多摩地区も東京府が厳重統括すべき、、、ということになり、明治26年に、多摩地区の3郡が、神奈川県から東京府に編入されることになりました。15区には変化はありません。次に東京市の大変革が成されるのはずっと後、、、、昭和になって昭和7年のことですから、、、あの大正の一大事、関東大震災の東京府内死者6萬3千人の、、、惨事の後の復興時も、15区のまま推移しています。
この大正の関東大震災の震源は、相模湾、馬入川河口と、房総半島先端を結ぶ線上付近のフィリピンプレートと、北太平洋プレートが、妙にねじれて北米プレートの下に潜り込むあたりの、世界でというか、地球上で一番ややこしい地殻プレートテクニクスの問題点の、歪みの解放大地震で、房総沿岸、湘南海岸、丹沢(ここだけが沈降、他の地区は隆起)が、大きな震動打撃で、南関東が地くづれ、山崩れ、地滑り、、、で、トンネルの口で列車が海まで転がったり機関車がトンネルに埋まったり、鉄橋が海まで崩れていったり、一部落がそっくり海に持って行かれてしまった海岸も出たほどでしたが、、、90年たった今、人の口に上るのは、東京の大火事、火災旋風、、、、あと7年の東京2020オリンピックの頃に、「100年目でござるぞ!」と地震大王が、焼き餅を妬かぬ事をを祈るのみです。
この関東大震災で、全くの焼け野原になってしまった、東京の下町地区にはしかし、親子三代のチャキチャキの江戸っ子ダイ!、、、という人々が、生き残って、焼け跡に帰ってきて「帝都復興」見ておくれ!と、焼けぼっくい焼けトタンのバラックを建てて、住み着き、少なくとも、何はなくてもとにかく意地を張って、、、威勢のよい復興の槌音を響かせ始めたのです。これには直ぐ、唄で応援する人も現れています、、、添田唖然坊というヒトが作って、バイオリンきィーきィーの自己伴奏で、曲は、聞くところによると、明治の始めに渡来した清楽「紗窓」をもじったものだそうで、、、
♪家は焼けても、江戸っ子の、、、意気は焼けない見ておくれ、オヤマア、アレマア、
忽ち並んだバラックで、夜は寝ながらお月さん眺めてェエゾ、エエゾオ、帝都復興 ェエゾ、ェエゾオ。、、
二番は、帝都復興でなく確か、、、「亭主復興 ェエゾ、エエゾオ。」だったと記憶。
これが、何でか、大戦空襲焼け野原の復興では、もう住人が江戸っ子は、少数派になってしまっていたのか、全く顧みられず、亭主復興もないまま、1964年までのオリンピック景気に何とか支えられて、自動車道路優先復興、、、という形での復興となるわけですが、、、
この間に、行政区的には、昭和七年の20区足し込みと、ドウリットル空襲のショックでの東京府から東京都への呼称変更、そして戦後マッカーサー令による、35区から統廃合での23区への移行が行われています。
関東大震災は、国際的な復興援助を拒否する理由もなく、アメリカカナダ始め食糧の持ち込みなど、多数の国からの援助を受けてずいぶんのお世話になっています。
この復興約10年、ということでしょうか、特に昭和という新時代に入って家内工業的産業が首都圏に興ってきたと言うこともあって、急速に東京市とその廻りの人口が増加して来たのです。そこで東京市15区の廻りにさらなる20区が足し込まれて、東京市がでっかく膨張したわけでした。
15区から35区へ001
図は、CQhamRadio誌2004年10月号氷室の執筆自稿の図を借用します。(mni tnx!)
南足立郡全10か町村で足立区が出来、南葛飾郡の全22町村を振り割って向島区,城東区、葛飾区、江戸川区の4区になり、荏原郡の全19町村を振り分けて、品川区、目黒区、荏原区、大森区、蒲田区、世田谷区の6区が出来、豊多摩郡のうちの13町村で渋谷区、淀橋区、中野区、杉並区の4区が出来、北豊島郡の全20町村から豊島区、滝野川区、荒川区、王子区、板橋区の5区が作られて新設計20区。合計35区の東京市になったわけです。旧町村1町だけで、一区に昇格したのが、滝野川区のみ。大きかった荏原郡は、6区にも分割されて消滅、そのうちの一区にかろうじて区名として残りましたが、電話局の局番に07という0で始まる特異な局番として、荏原局は戦後まで残っていました。図中に太字で書いたように、その後昭和11年に、北多摩郡の砧、千歳、2村が世田谷区に編入され、北多摩郡の武蔵野と三鷹町はのぞいて都側の村部は消滅しました。
東京府に市は、明治時代は、東京市が1市だけで推移しています。大正になって、生糸紡績や織機の普及が始まり、生糸と、織物の集散地に人口増加が目立つようになり、大正6年に初めて東京府に2番目の市八王子市が出来ています。
大正11年に陸軍の航空部隊の編成替えがあり、北多摩郡立川村と一部砂川村にかかって陸軍飛行場が作られ、じわじわと、人口の集中が興ってきます。そして、昭和の初めに日本国内にも航空輸送という事業が始まり、民間航空熱が興ります。これが昭和10年代になると、国内よりも大陸へと、南洋群島へとの航空輸送も盛んになって、いっそのこととまとめて、国策会社が、航空輸送事業を取り仕切ることになり、首都に一番近い立川飛行場が、一大拠点になり、、、ここにさらなる関連事業と人口の集中が現れます。こうして、昭和15年に、東京府の第3番目の市、立川市が誕生しました。そして、、、翌昭和16年の12月8日、米国並びに英国に対しても、戦争を始めてしまい、のっぴきならなくなりました。その4ヶ月後には、最初のしっぺ返し、中型機36機のドウリットル空襲で、東京を始め、横浜、名古屋、神戸などが投弾され空爆炎上破壊の他、学童1人を含む非戦闘員数十人の死傷者の人的被害まで出たのです。殆どの地で、空襲警報が出る前に複数の敵機が低空で進入し、投弾銃撃するという有様で、、、情報の下部上達、指揮命令の上意下達に時間がかかりすぎる「屋上屋を成す」情報や指揮命令系統の階層の重なりすぎが、時間差を生んでしまったとして、、、反省されたが、何せ日本はお役人仕事の国、帝都の、職域階層をとにかく半年以内に、、、減らそうと、東京府に東京市は要らない、と、昭和17年10月1日に、「東京都」を発足させとりあえず、35区と3多摩地区3郡を都知事直結にしただけで、終戦まで、何ら変わることはありませんでした。お役人仕事の最たるものでした。



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