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みちのくの,,,地理と歴史のお話。

奈良時代が終わって、平安朝の初期、、、たとえば、2年半前の、東日本大震災の大地震と大津浪とほぼ同じ、津浪が、「 ,,,末の松山、浪越さじとは」、と小倉百人一首にも収録されています。859年とされる、貞観11年の出来事ですね。このころすでに、当時は「みちのく」とよんで「陸奥」という字を当てた、 白河の関より「遠国」しかし、もっとずっと北の、多賀城に立派なお城があり、みちのく一番の、城下町が出来ていたようですが、、、この貞観(ちなみに読みは;じょうがん)と両方とも濁るのが正解のようです)の大地震と大津波によって、この都も打ちのめされてしまったのに、もすこし海岸に近い、「末の松山」という松の名所は、津浪の呑まれることもなかったというわけです。このほか、小倉百人一首に採録された歌に「みちのくの、しのぶもじずり、たれゆえに、、、」という歌もあり古墳時代から石背(いわしろ:岩代の国今の福島県)を代表する郡として信夫郡が昭和時代までありました。高校生の歴史の参考書(吉川弘文館刊)の歴史地図にあります。「モジズリ」とはネジバナのことです。
ネジバナ歴史地図のついでに坂上田村麻呂による蝦夷の平定服属の経緯と、その後じょうがんの津浪前850年頃の、奥羽地方の状況地図です。
古墳時代の001850年頃までの奥羽経営002

フロンテイヤー坂上田村麻呂は、ご指名によるとはいえ、750年代から800年頃までの半世紀に、多賀城の北の太い赤線から上の、黄色い部分を服属させて、胆沢城始めいくつかの出城と柵を設けて、これ以上の蝦夷の南下の防止策を講じています。ニサッタイや津軽はまだ、、まだ海のものとも山のものともの状態だったようです。これを、統一統率して、鎌倉時代までの、3百年間に、みちのくの特に北部を掌握したのが、後に平泉に館を置き、鎌倉の頼朝と張り合うことになった、藤原一家ですね。北の最果て迄居た馬の飼養培養による富の蓄積と兵力の温存によってと更に加えて、砂金から始まって、その元となっていた、金鉱の採掘によって巨万の富を蓄積し得たのでした。頼朝と張り合った頃には、殆ど金鉱は掘り尽くしてしまっていた、秀衡が、病に倒れて(昭和・平成のミイラ鑑定と病態解析では、脳梗塞または脳溢血による右半身不随)たった2年で藤原一族は滅んでいます。
現代科学では、800年ほど前のミイラから、在りし日の藤原秀衡は、こんな顔、、、と復元図まであるようですね。
ミイラを元に秀衡の顔復元
このあとは、建武の中興を経て、戦国群雄割拠、弱肉強食焼き肉定食じゃないが、一族同士も殺し合い。
丁度、この藤原一族のあとは、南部一族が引き継ぐのだが、これが又今度は食肉人種。一族も、謀略合戦。
太閤検地暦004

丁度、織田信長が考えついて、畿内一円には試行実施した検地を、秀吉は、論功行賞に過不足があってはならぬとより合理的現代三角法と同じ三角検地法で全国を二度三度四度と行っている。一つには、賂が罷り取っているとの噂にもよるようです。、、、この賂罷り通ルを利用、検地が来ると知るや、先に、検地検非違使と通じて地積を決めて、秀吉の太閤検地御朱印安堵の申請を送ってしまい、一族の領地を、検地のたびに1-2村宛、横取り、終いには郡迄横取りして御朱印安堵を先取りしてしまった悪いのまで居る。南部の一族からのし上がって、大浦為信と名乗り、同じ南部一族の婿殿、石川政信の領郡迄横取りした挙げ句、津苅の郡迄横取り津軽為信とまで改姓御朱印安堵している。しかし、天網恢々疎にして漏らさずの言葉通り、領地拡大が目にとまって、「ウイヤツ、ならば朝鮮出兵に自ら率いて軍を送れ!さすればさらなる論功行賞思いのまま、、、」と太閤に直接呼び出される羽目になる。南部の跡目相続順にばたばたと寿命つきていく中で、石川政信は、九戸の城主に登ることになり、これで寿命が尽きてはたまらんと、自ら信ずる神仏に祈って、九戸城を「福岡城」と改名させる。九戸に福を呼ぼうという魂胆。しかし現実は厳しい。「たとえ千人の手勢でも、、、」と朝鮮出兵の戦局の不利回復の軍団兵員募集のおふれ。遠隔地である故をもって断ればどんな無理難題が降りかからぬでもない。さりとて、南部九戸から熊本名護屋迄の道のりは、田舎小藩の財政には過酷。やむなく、呼び出し状の文句の通り「千人の手勢で」出かけている。小西軍の敗色は濃厚、秀吉も、この1000人に船作らせて、送っても、もうどうにもならぬと、腹をくくったか、お世継ぎ誕生に、心ここにあらずしたか、軍船準備の指令もないまま、年が明けて、、、帰国が許されて、、、又春を追って九戸へ帰ってみれば、、、なんと、、、一族皆寿命つきて、第26代南部の殿様やる羽目に、、、。石川政信改め、南部信直として、大浦の奴に横取りされていた、南部領を返させて更にその上に3郡を任され、みちのくの大首領とならねばならなくなった。九戸福岡城では、間尺に合わない、太閤秀吉は、もう、相談相手では無かろうと読み加賀の前田大老に伺いたてて、築城許可をもらい、それまで「不徠方」(こずかた)の丘と呼んでいた、北上川と支流雫石川の合流点のうっそうたる森の丘を切り開いて、九戸城を「福岡」と呼んだなら今度の城と城下町は、森の丘、どうせ城下町も国外に名産を売りつけて、殷賑を極めさせる設計にしようと森岡でなく!「盛岡」と命名し、城とその城下町の設計に工夫を凝らしたが、病を得て、道半ばに没。その後、南に名将伊達政宗が、台頭するが、遺訓を守って築城と城下町の形成に尽くした家来と後継者によって「領内の物産はまず領外に売って稼げ」を守って繁盛で、、盛岡は殆ど伊達の影響は受けぬほどの、地方集散地としての隆盛を遂げていったとされる。
幕藩体制完成時1664005

二つの城に、福岡と、盛岡と命名し、、、それに物産はまず外貨を稼げ、、、安土桃山から秀吉までの武将の時代を生きた、商将というべきかも。
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