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能と大工道具をつなぐ殺生石

相変わらずの歴史雑学に戻りましょう。幾項か前に、規矩準縄などという四文字熟語で、大工道具のお古い一席をお目にかけましたが、、、その亜流と申しますか、夏が来て水泳のシーズン、泳げない方は「イヤー、私は金槌でしてね、、、」などという、大工道具は古来から日常用語的に普及だったからこそ、こういう表現が日常用語化しているわけですね。人間の頭は重いんですが、泳げない人は水から頭が上げられないのに、泳げるようになったトタン頭は自然に水から上げられるようになっってしまっているんですね、、、これから金槌とは「よくも言ったり!」だと思います。
鎌倉時代以降、日本でも鉄材が、武器以外の道具にも、鍛冶屋によって存分に使われはじめ、まず農具と大工道具が兵庫や、伏見から全国に普及し始めています。兵庫はそう言う意味で文字の通り、日本の歴史はじめから武器庫であったわけで「名は体を表す」字句だったのです。金槌の類もほかの鉄製道具とともに、このあたりから、いくつかの用途別にだんだんに細かく分化していくわけですね。げんのうと言う、鑿(ノミ)の打ち込み専用の一種の金槌もこの頃から分化したようです。
一方、平城京時代から、朝廷等が、雅楽と並んで、ま、鑑賞の楽しみとした下賤の白拍子どものお芝居芸として田楽・猿楽を利用し始め、平安時代にこれがほぼ猿楽として定着形成された。朝廷公家の楽しみから若干裕福な平民の楽しみの一つとなってきていたようです。鎌倉時代に鉄製武器や馬具の生産量が全国的に高まり、日本の社会の一つのエポック、武士階級が発生、源平の合戦で全国が荒れて、しかし戦争は発明の母、死生観を通じて精神的な癒しが必要となり、室町時代に、翁猿楽・夢幻能が大発展、足利3代将軍義満の頃に大和四座(現在の能の、宝生、観世、金剛、金春各流につながる)が淘汰されて残り、中でも義満は、結崎座観世の世阿彌親子に傾倒したとされる。名駅薪能sc001

この7月28日予定の名駅薪能のチラシの中の外題の一つに「殺生石」観世清和(第26代観世家元)が見えます。
一方、この室町時代頃から、金槌の一種の分化として作られ普及したとされる「大工道具の歴史」(岩波新書すでに廃版)のホンにあるゲンノウのページをコピーしてみましょう。
げんのうのページmc003
版権の問題がありそうですからコピーはやめておきますが、この薪能のチラシの裏には、能「殺生石」のあらましが書かれてありますがまさに、高僧「玄翁」(げんのう)と殺生石が「大金槌『「げんのう』」で打ち割られて飛び出した、中に籠もって呪いまくって飛ぶ鳥も落としていた、野干(陰陽道の呪いに殺された狐の魂)とのやりとりなのですね。
こうして高僧「玄翁」は日本の伝統文化の粋「能」と、伝統的大工道具の一つ「ゲンノウ」を、ばっちりゴツンとつないでいたんですね。さすがに高僧。
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註:画像文中に「雍州府志」とありますが、、、
これは、
浅野家に仕えた儒医で歴史家の黒川道祐(?-1691)のまとめた山城国の地誌.道祐は職を辞した後,洛中洛外とその近郊をたびたび歩いて,地理を考察し,古記録,金石文を書き留め,その精密な探査に基づいて,中国の地誌『大明一統誌』に模して本書を著した。全10巻で,自序は1682年(天和2)と推定されるが,第10巻の刊年は86年(貞享3)。《大明一統志》にならい,京都の所在する山城国と京都の地理,沿革,寺社,土産,古跡等が詳記されるいわば ―― 近世京都案内
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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