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田無と医学博士宮田重雄画伯

昭和20年4月、琵琶湖から東の東海、関東地区は空襲の対象となり、確か4月26日から、一切の余計なラジオ放送波停止、ただ警戒警報、空襲警報だけが、「関東防空情報」「東海防空情報」として必要時に流されただけでした。しかし、ラジオは、ナンにも言わないまま24時間毎日点けっぱなしにしておく必要があり、、、暑い日には、真空管も、トランスもヤケヤケになっていました。こうして約4ヶ月足らず点けっぱなしで経って、重大放送、、、で終戦、、、。真空管はボケ始めていました。当時の我が家のラジオは、二階の親父の自作、226-foxton礦石-226-112B 朝顔小ラッパの3球礦石検波レフレックス。と1階も親父のキット組み立て、227-26B-12A-12F U字型磁石のマグネチックの紙コーンスピーカ並四。227以外は、みんな直熱管。
その冬、、、みんなで火鉢を囲んでいたら、親父が消し炭持ってきて「火を起こせ、真空管の惚け直しする、、」と言って、ラジオの真空管を皆取り外して持ってきて、一つ一つ、ゲッターでギンギンで中の見えない部分を火に近づけて炙り、、、しばらくすると中が見える程度にギンギンが消えた部分が出来た。「熱いからうっかりさわるな!」と言って、板敷きの上に4本足で立たせて冷まし、、、ラジオを持ってきて、全部もとの位置に挿し真空管見えるようにして、電源を入れた。興味津々である。
音こそ殆ど出なかったが、直熱3極真空管はどれも、少しの間パチパチ管内で火花が飛んだ、、、やがて親父がボリュームを上げていくと、アーラ不思議、昨日まで、ブーンというハム音の中にかすかに放送が聞こえるだけだったラジオが、正正堂々の音量でハッキリ聞こえ始めたではないか。「フィラメントタイプの、ゲッターがマグネシウム有り余る、直熱管でないとダメらしいが、こうやってもう一度、ゲッター飛ばすと、再生できるらしい、生徒が今日学校で教えてくれた。確かに旨くいったね。随分助かったわ。」

こうして、我が家のラジオは、一応よみがえった。鐘の鳴る丘、カムカム米語。平川唯一先生には、お世話になりましたね。証城寺の狸ばやしの節で、

♪ Come,come,everybody,how do you do? and how are you? Won't you have some candy? 1and 2and 3 4 5. Let's all come and meet again, singing tua la la.

♪ Goodbye everybody, goodnight untill tomorrow,Monday,Tuesday,Wednesday、Thursday,Fryday,saturday,sunday。 Let's All come and meet again,sing tua la la.

まさに三つ子の魂百まで!でしたね。
ラジオ放送が未だNHK第一と第二放送だけ、民放もテレヴィもない。並木路子のリンゴの唄が流れましたがそのほかの流行歌はNHKの品格を損なうモノとして、なかなか唄われず、昭和21年5月頃から荒井恵子さんが、昭和17年頃の唄、「森の水車」 を歌い始めたのでした。
♪緑の森の彼方から、陽気な唄が聞こえます、あれは水車の廻る音、耳を澄ましてお聞きなさい、コトコトコットンコトコトコットン ファミレドシドレミファ、コトコトコットンコトコトコットン、仕事に励みましょ、コトコトコットンコトコトコットンいつの日か、楽しい春がやってくる。,,,,
そうです、戦時中に作られたのだそうですが、当時はそれどころでないと、見捨てられ、、、歌われなかったのだそうです。戦争が終わって、食べ物も物もなくても、その「楽しい春」がようやくやってきたのでした。


他の時間に、それまで戦時中には、戦前「国民歌謡」だったタイトルを戦時歌謡」と改題していた「みんなの唄的」唄の時間を「ラジオ歌謡」として復活した。初めの頃の唄では、「花祭り」ぐらいしか覚えがない。22年になって、「黄昏の夢」「平城山(ならやま)]、「山小屋の灯]「アザミの唄」「山の煙」と続き、、、そして数曲空けて「さくら貝の唄」と名曲となって、後世に残る唄そして、NHKのど自慢が始まって、鐘一つも出る、、、唄となった。
この頃から10数年続いた、常連出演者による、2つの名クイズ番組が、評判になった。「話の泉」「二十の扉」そしてちょっと遅れて、「とんち教室」、、、。
この二十の扉の3つのヒントカテゴリーが「動物」「植物」「鉱物」。レギュラー解答者は広汎な知識分野が必要とされる。たまたまその日ニュースで話題だった、国会に吉田茂首相が和服白足袋で登場、、、の夜の「20の扉」は、ヒント「動物」で、サトー・ハチロー第一の扉で、、、「吉田のしげチャンの白足袋ー」と金星を挙げた事もあるにはありますが、、、どうしてもキャリヤーも長く、いろんな分野に股を掛けた人が必要で、、、その解答者の一人に、愛知県の産で、慶応医学部出身、パリのパスツール研究所留学時代、ユトリロの絵に心酔して、帰国後洋画を梅原龍三郎に師事して、画家と医者を二またかけ、軍医応召して、北支派遣軍の軍医として、大同石窟付近にたむろして、中国にもフランスにも詳しい、宮田重雄ドクターが出演常連でした。これで名を売ったわけでもないでしょうが、北支従軍時代のスケッチふん段に取り入れた「大同小異抄」でしたか、まだ戦時中の帰国後の出版の絵入り随筆集は一応相当な、中国の絵入りの解説書として有名でした。
この宮田重雄ドクター、戦時中の北支従軍後、予備役か、退役後、陸軍がお忍びで作った田無の、「医療・衛生:第一診療所」の所長でした。田無には戦前から東京帝大農学部田無農場があり、ここで数頭、時には10数頭の馬が飼養されていたことがあります。宮田ドクターの学生時代から、又パスツール研究所留学の、テーマは、「破傷風の毒素の濃縮」で、医学博士論文も「破傷風毒素精製に関する研究」[by博士論文書誌データベース]。「破傷風についての最先端の知見に通じておられたからなのです。
ここ田無には、中島航空機工場と、その発動機工場、そしてエンジン鋳物を作る、中島金属鋳物工場などが、高い松林に隠れるようにして、作られていました。太平洋戦争の後半、陸軍も海軍も、この高い松林に隠れて、無線受信通信隊をこの松林の中にいつの間にか作っていたのです。そう、高いアンテナをながーく張っても松の木の間では、見えませんわね。
昨年夏、NHK特集かで、廣島原爆を運んだ特別のコールサイン番号を持つB-29は、ここの通信隊に、捉えられていて行動が特別、とマークされていて、、、テニヤン基地を3機で飛び立って、大阪方面に向かうような、方向で、向かったと判り、、、ここ特務通信隊の担当のS中佐に報告、S中佐が、スは一大事と、上層部に報告したにもかかわらず、、、上層部はナンの措置も講じず、広島に原爆が落とされてしまったという特集をやりました。
実は、このことは、数年前から、インターネット「或る通信兵のおはなし」(<-クリック)というサイトで、有名になっていました。「上層部」は不勉強で原爆の何かは知らず、B-29に積める豚ダマは大きくてもせいぜい8トンまでだろうと、、、と高をくくっていたようです。又もう一つはもう破れかぶれで、帝都も、宮城さえ直接狙われなければ、自分らに責任はないという自分勝手な理屈が起きていたかも知れぬようだったと、心理学者の解説も聞いたことがあります。その、応援動員学徒も含めて、ここに出来ていた、陸軍の特殊情報受信通信隊研究班が、松林の中で怪我して、破傷風にかかってもいち早く、first aidを意味する第一診療所に駆け込むように、ここに宮田ドクターを配していたようでした。戦後は第一病院となり、陸軍の影は当然消えました。7-8年前、ここ田無に永年雇用の中心だった一つ、三共製薬田無工場が移転し、跡地が、高層団地となり1萬人以上の人口増加と集中がこの病院の直ぐ西に興り、この病院がいまや西東京中央総合病院と名を変えて、、、第3内科外来まであるという盛況ぶりのようです。
宮田重雄画伯に戻りましょう。戦後は、この20の扉を境として、完全に画家それも新聞小説の挿絵画家として、お茶の水のお掘端の土手斜面の小屋生活などを活写して有名になった読売新聞の獅子文六の「自由学校」など、、、次々と登場。さらに新聞から雑誌へとご発展、あろう事かチョイとエッチで当時売れた石坂洋次郎小説の石中先生行状記の挿絵も描いた上に、映画化では石中先生を主演する、、、と言う尻上がりの売れよう。
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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