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分廻しとコンパスから「規矩準縄を正す」話

先ず、このブログのチョイとした情報追加から、、、一番間近では「大阪空襲と精油所」でキュラソウの航空燃料精油所が本格稼働し、且つ硫黄島に鉄板熔接による急造滑走路が完成して偏西風に逆らう大阪方面への空襲は始めて可能になったようだったと書きました。この、キュラソウの精油所は現在も後継プラントが存在しておる様ですが私の学友によると、オランダのダッチシェルはもう30年も前から、容量だぶつき、、、その頃、キュラソウ島の自治政府が誕生、どうにか自治領が軌道に乗ったのを汐に、もう20数年前この精油所を只の1ギルダーでキュラソウ島自治政府に譲渡したとのこと、その後の精油所の稼働に関してはシェル石油は関知していない、とのことでした。付け加えておきます。

おはなしは、空襲も航空燃料も関係ない、このブログでご紹介したことがある、富士山で有名で、このほど、又やっと世界遺産登録がほぼ確実になったので、、、思い出した、葛飾北斎の、、、沖津白波裏の富士山の絵が、どうやら「分廻し」を縦横無尽に使いまくって構図を決めた!と言う、中村某氏の解説を引用したことがあり、、、分廻しが江戸時代に既に、相当有名な、大工設計道具として、使われていたことのおはなしです。
大工・建築特に設計と建付の基準決め所謂監理には必須の道具を並べた言葉に、、、「規矩準縄を正す」ということわざに近い字句があります。大昔から、分廻し(等間隔)、指金曲尺(直角)、水張り水準(水平)、墨壺墨縄による下げ振り(鉛直)、、、設計建築に欠くことが出来ない重要要素であり、必須大工道具でした。
こんなシルエット画があったら、いつ頃の絵だと思いますか?女性が十文字の分廻しを手にかざし、男性が曲尺を手にかざしています。
武氏祠石室画規矩


大工道具や、紡績機や織機の歴史書には必ず出てくる、ほぼ2千年前に、石に彫られた、画像石の絵なのですね。
所は中国山東省、嘉祥県武宅山北麓、1600年ほど黄河の氾濫で、埋もれていて、清の乾隆時代1786年頃に、東漢時代の武氏の文献に孝養のために兄弟親戚が、祠をいくつか作ったと言う記載があり、黄河氾濫のあとを整理したところ、立派な、石室を持つ、祠が複数見つかり、中から当時の道具農具、機織紡糸具から人物車馬兵馬、の他孔子、孟子の歴史故事らしい絵まで、夥しい漢画を彫った画像石群が現れて、、、改めて又その上の祠の社屋を建てて、保存し直したようです。日本では京大に殆ど完全なレプリカがあるようです。この分廻しと曲尺の絵は単独でなくハタ織機などと、セットの石像画で、左石室からの一枚のようです。
規矩画の上付近
このほかにもいろいろなモノが、精巧に描写され、当時の生活が相当活気に溢れたモノであったことが窺われます。
又碑文も見つかり、、、東漢の建和元年(紀元146年)の発起で作られたことが判っている。こうして、ぶン廻しや曲尺がもう2000年前から日常道具として存在したことは判っています。さて、規矩準縄のあと残り2つ水準器や鉛直用の下げ振りは?、、、日本の法隆寺や、その他の古寺の建築ではどうしたのでしょうか?私どもが学生の終戦直後の大学の先生が、日本では貴重な「大工道具の歴史」の講義をしていただき、その後、岩波新書の同名の本(村松貞次郎著)になりました。当然もう廃刊廃版になっていて残念です。
このブログの項として、分廻しと曲尺の標題としては以下は蛇足になりますが、、、大工仕事の大元の重要事項、基礎の水準、柱の鉛直など、建築物が、作られ始めて直ぐ気づいているようで、、、イタリアのピザの斜塔を例外として、世界の殆どの古代の建築物でも、「規矩準縄」は正されています。ところが、私のこの稿の記述は実は、正確を欠いています。「規矩」は確かに「分廻し」と「サシがね(曲尺)」ですが、「準縄」はこの2文字で「水準器、つまり「みずはかり」のこと」だそうです。平安時代に記録し残されて室町期の大工道具などの一般化が進んだ時期に発見され写本が残った「倭名類聚抄」(105巻に及ぶ大部の平安時代のいろいろのモノや事の呼び名、役職名前などの解説集)によると、、、「準縄」は、万葉かなでハッキリと「みずはかり」と記されているのだそうです。この頃までの「みずはかり」が、どんなモノであったかは、、、シカとは判りませんが、その室町時代に、、、その昔、明日香京に始まり平城京・平安京つまり奈良時代平安時代を通じての天皇家の姻戚であり続けた、藤原家が、鎌倉時代に入って武家階級が、鉄鋼武器と馬具の改良で馬を駆るようになり勢力を得て台頭すると見るや、、、公家家西園寺家と名を変えて鎮まり、資金力と、人工の動員力を最大限使って先祖藤原一統を祀る大社・春日権現(後には春日大社)の造営を行いました。その上で、当時のあらん限りの高級材料を使って、この造営の由来記から、造営の詳細図絵、その後の蒙古の襲来を追い払ったのもこの権現の造営の一大霊験効果なりと、、、大部、21巻、44輯約250部分絵図に及ぶ絹絵巻物に作って、、、宮廷に献上後世に残しています。室町時代後期の西園寺公衡の仕事のようで「春日権現験記絵」と称し当時の宮廷絵師高階某の作、現在宮内庁の宝物殿に収まっていますが、平成に入って、奈良女子大で、虫干し防腐防虫処理かねて、複写、デジタル処理がなされ、現在はコンピューター画像になっていて、みることが可能のようです。この造営絵巻に当時(鎌倉時代)の大工道具の使用状態些細がいろいろ絵師によってかなり具体的に描かれていて、とても技術史的に役立っています。上記「倭名類聚抄」では万葉かなでの説明だけで「ナンのこと?」か判らなかった「みずはかり」の図もチャンとそれとなく、書かれてあるんですね、さすが金に糸目を付けぬ、絵巻物の効果!躍如です。
みずはかりもある図水はかり図拡大
では4つの基準の最後、、、地球重力つまり引力線「鉛直」のはかり方は、具体的にどうしていたか?現在、大工さんは「下げ振り」という真鍮製の逆円錐型の錘に水糸を付けたモノを使用していますね。
大工さんは、つい戦後まで、墨縄墨壺という、罫描き用の道具をよく使っていました。古くからの大工道具で、奈良の正倉院の御物にも祠祭用のものと思われる墨壺が収蔵されているそうです。その起源は、もっとずっと古く、斑鳩の寺社や、法隆寺などは、むしろ、渡来人の大工に習ってから何代目かのもう日本人による日本建築法所謂和様建築が確立して、渡来した唐様・韓様の軒の下がった四隅の跳ねた建築法から完全に独立した、平方根2(√2)が刻まれた「まがりがね」(曲尺)と直線を材に写す墨縄無しでは絶対に組めない屋根や軒組み法が完成していたのです。
和様法隆寺の軒組001和様の軒組 と名称002
唐様の軒組 と名称003
奈良の東大寺の5丈3尺5寸の大仏さまは、天竺渡りの仏様ですから、それを収納するのには世界最大の木造建築である大仏殿は、天竺様建築で組み上げられています。比較には大きすぎますので、南大門の方で、お目に掛けましょう。
天竺様の軒組 と名称004
これらの建築の柱は総て鉛直に立てられていました。その後、東大寺は火災に遭っていますね。建て直されたときに、この南大門に墨壺が置き忘れられ、貴重な歴史的遺物となっています。この頃以前の墨壺から、江戸時代、日光東照宮の造営の頃までに実用された墨壺には、東大寺南大門墨壺005
写真にみられるように上面に妙なフックのような金具が取り付けられていました。東照宮以降の江戸時代の後半以降、明治大正昭和に至までの現用墨壺には、このフック用の金具はなく、、、大昔の墨壺は、ナンのためにこんな邪魔なところに飾りみたいにこんなモノを付けていたんかいな?と、、不思議に長いこと終戦後まで、思われていたのだそうです。村松先生が、この「大工道具の歴史」をまとめるに当たって、いろいろ、文献を当たり直して元禄の頃に描かれたとされる、松崎天神縁起図の本物を調べ直したときに、、、この図に遭遇!一気に謎が氷解したのだそうです。南大門の尻割れ墨壺に、復元用の墨縄車と墨縄を、乗せてみて、重心の位置を測ったら大体フックの位置に来、日光東照宮造営の墨壺のフックの位置もピタリ重心の位置だったのだそうです。
松崎天神縁起墨壺下げ振り006
エヘッ、一番肝腎な、葛飾北斎が使ったと想像される、「分廻し」、中国の武氏祠石室絵にある、X字型のモノでは、所謂「部分長さ」を「等間隔」にあちこちに振り分けると言う意味では、X字の交点の位置を変える「枝長さ変え」式の「分廻し」か、X字の交点は変えず、X股の「角度」を変えて一定長さを移す、現代文房具にある「コンパス」式か、実は、既に、江戸時代の割と始め、6代将軍「家宣」の正徳二年に大坂で刊行された「和漢三才図絵」に、「枝長さ変更式(主に竹製)」が「分廻し」として、角度変更式(真鍮製など)が「根発子」として収録されているとのことで、北斎は、功成ってからいつの間にか「根発子」を手に入れていたのかも知れませんね。











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