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子供の科学昭和3年2月号記事「間宮林蔵」

江戸時代の事を調べようとすると今日、NHK「お江戸でござる」で有名だった故・杉浦日向子氏などの方が先に出て来ますが、、、私の子供の頃は、この杉浦日向子氏が「江戸学の始祖」と敬愛してやまなかったこの「森銑三」(クリック)氏でした。愛知刈谷出身の彼は、高等小学校を出てから、苦学、小学校の代用教員しながら、古文書などから、昔のことをどう調べていけばよいのかに興味を持ち、図書館に入り浸るだけでなく、図書館に勤める人の教えに忠実に従って、猛烈勉強してその努力が実った人のようです。
先ずタイトルから。
記事タイトル002
東京帝大・史料編纂所はいまの東大にも残る一大資料集積所ですが、関東大震災後に上野に仮普請で出来た、文部省・図書館講習所(現・筑波大学・図書館学・書誌学科等の前身)に30歳代で入学、1年の勉強で先生の推薦で、帝大の史料編纂所の図書掛に就職,13年ここに勤めて、史料につぶさに接触、大いに自己研鑽すると共に資料の整理推敲に、日夜没頭したようです。その一つの目的が後継者の教育。それでこの子供の科学にも、江戸時代の努力家の人々の伝記や業績の数々を書き残しているわけです。この間宮林蔵の樺太(現サハリン当時の日本では「さがれん」と呼ばれることも多かった)大探検記が第1稿のようです。
この記事にもあるように、樺太の第1回目の測量は、西海岸を上役の松田傳十郎が、東海岸を間宮林蔵が受け持ったようです。東海岸を寒さが季節にしては、非常な早さで南下してきたので、早足で測量し、(形と向きが、あまりその後の地図とあっていない!)途中まで帰って、山越えして、西海岸に出て、松田のあとを追って北上、合流している。公儀隠密の面目躍如、凄い足の速さ、脚力の持ち主だったようで、、、この脚力、隠密歩きが災いしたか、樺太の地図では、かなり正確度を欠いていますね。伊能忠敬は、歩度の正確さで非常に正確な地図を仕上げていますが、国後択捉の調査時に、後を追って、蝦夷地調査係に編入された、間宮林蔵が来て、地図調査、の基本からここで教育したようですが、どうも歩度の正確さでは松田より未だかなり劣ったままで、樺太に渡っていったようですね。
林蔵が作った地図001
西海岸の海岸線の方が確かに単調ではありますが、この調査時に、たまたま、地磁気の乱調も手伝ったのか、東海岸の方の海岸線は全く頂けない状態ですね。第二回目の探査は、二人で西海岸線が大陸と切れていることの確認で、、、松田は報告に帰るというのに、間宮は、ダッタンにも、清国の役人がいるだろうから、船さえあれば、自分ひとりでも土人使って対岸に渡って確かめると言いはって聞かず、、、ついに物別れ、松田と別れてから、勝手に押し渡ってしまったというのが、真相かも知れません。この辺のところに林蔵には松田が上司としても尚、曰く言い難い、隠密としての使命が隠されて居、これあればこそ又、自分の名を、このタタール海峡にされた筈の海に「間宮海峡」の名を残すことにもなったのかもデスね。もっともこの雑誌記事には戦前ですから、隠密のことは針の先ほども出ては来ません。この記事にも世界の有名地図にはいずれも、間宮海峡の名は記されたし、、、黒竜江下流域の中国東北部から、シベリヤ東岸に掛けての探検記が、西欧では有名になっていると紹介してあります。
現在では、間宮林蔵(クリック)が公儀隠密であったことは、石州浜田藩の密輸密告・スパイ事件他で動かし難い事実としてそれに立脚しての林蔵の業績に数えられていますが、封建階級制度の厳しかった時代のママの昭和の初め、史実としての紹介は又こうでなくてはならなかったのでしょう。
話は変わりますが、、、。この記事に大きく、挿絵が載っています。荒れる海を小さな川舟で土人を指揮して、対岸の大陸に渡る子供の心に訴える勇壮な挿絵です。
記事にある挿絵003
宗谷にある、現代の間宮林蔵顕彰会のサイト(クリック)にこの調査船の復元船の記事に写真が紹介されていますが、「サンタン船](クリック)と言い、小さいながらも、船首に、波切り板が工夫された、江戸時代後期に現地のサンタン人にしか作れなかった船が、紹介してあります。
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