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大阪空襲とキュラソーの精油所の関係、、、なども書き残します

大阪は、B-29によるテニアン・サイパン基地からの爆撃は、燃料と爆弾の持ち合いの関係から、ギリギリの距離にあったようでした。名古屋と東京は、偏西風の利用の仕方次第で、かなりの成功率と読めていましたが、大阪以西は、サイパン・テニアンからでは、爆弾投下前に既にかなりの逆風による燃料消費が心配で、爆撃成功しても帰着できない機と人的消耗を覚悟心ければならない状態にあったようです。このため、サイパンテニアンからの大阪第一回だけ、搭載を油脂(ナパーム型)大型1個、目標火災用に1個と後は、例の60本ひとまとめの普通焼夷弾ばかりを、燃料満載の残りペイロード80%程度積んで、満腹させていたようです。
B-29.jpg焼夷弾架
サイパンテニアンからの爆撃はそのため、この3月13日夜遅くから、翌14日の未明、3時間半程度の焼夷弾だけの攻撃で、このため燃えにくい工場や軍用施設でなく、、木と紙の住宅密集地に目標を絞ってやったと言うことでこの一回だけだったようです。この後は硫黄島から、、、又、キュラソウの精油所も充分完成して、給油船の配備も強化された6月以降、初めて、爆弾焼夷弾の混成で、造兵廠、兵営、給水場、軍需工場地区が、6月1日から、6月3回7月3回、更に8月終戦の前日車両基地目標と、總計8回、徹底完膚無きまでにに破壊し尽くされました。
キュラソウ島は、知らぬげにいまは観光の島のようです。
キュラソー_carib
大阪第1回目の空襲が住宅密集地が目標にされた不運はそういう事情で、このまとめ型約1000mの高度で開いてばらまく、焼夷弾による攻撃だったようです。キュラソウ島には、いまも、精油所はその島内湖のその位置に後継設備にすっかり置き換えられて残って稼働しているようです。google マップの航空写真で見てみるとこんな案配です。住宅街に近いタンクヤードと、港に近い湖岸地区との間の辺りに、旧設備を撤去して後継設備を設置した後歴然のエリやが見て取れますね。あるブログに現地の若者に、精油所が見えるところまで連れて行って貰った記事がありますが、何本かの煙突から炎がでているのが見えて、稼働中は明らかだったとありました。
空撮現isola
住宅地に近接してつくられたのではなく、精油所は、1944年に既に第1期完成して稼働始めたのですが、40余年前から、この西北西海岸にあった、
ヴィレムスタッド世界遺産の町古いヴィレムスタッドの港町が世界遺産の指定を受けたことにより、観光ブームが起こり、こんな事情になってしまったようです。

このキュラソウの精油所の本格稼働が硫黄島の陥落後の鉄板自動溶接機による滑走路と、タンクヤードの建設によって、1ヶ月後から滑走路が使用できるようになり、更ドイツ降伏により、7-8千トンから、1万2千トン級のタンカーが、サイパンテニヤン及び硫黄島向けに配船可能になって、漸く、日本本土空襲が、本格化したわけです。
大阪の第一回爆撃は、難波の辺りも燃え上がったにもかかわらず、地下鉄に憲兵が誘導したりした模様で、地下鉄宿直職員が気を利かしたか、3時前後、4時前後、5時前、と、地下鉄が少なくとも3回以上動き、少なくとも数十人の人々が火災の地上から幸運にも脱出しているもようなのです。

既に、キュラソウの精油所がつくられた国際的経緯については、このブログに書いていますが、ヴェネゼラの原油は、重質原油でナフサが多く、そのままでは航空燃料ハイオクタンガソリン精製には向いていなかったのでした。
ロワイヤルダッチシェル社は、既にその30年前からこのことに気づいていて、ナフサを分解して低分子量の、何かをつくることに腐心し、1940年頃までに、ナフサを分解して、低分子オレフィンガスに出来る技術を見つけたようでした。そして白金触媒により、これを2-3分子重合開鎖して、ヘプタン、オクタンやノナンに合成するプラット・フォーミングと言う技術を完成しパイロットプラント試験を始めたところへ、2年半後から航空燃料を、月ン万頓宛注文することになるぞ、即刻新規大型精油所をつくってでも、準備始められたし、、、と言う飛んでもない注文大予告をアメリカから突きつけられ、、、日独の脅威からの警備警護の約束と、大型資金援助、プラント設備の米国内での製作建造調達、秘密保護等を条件にパイロットプラントの図面のママ14並列設備の発注を米国にしたようです。

兎に角、6月1日後は、大阪もその他の地方都市も、3日に上げず、関西地区でも、、大阪府下では、堺市、岸和田市、豊中市、池田市、吹田市、布施市、高槻市、泉大津市などが空襲を受けた。又、 周辺地域では神戸市、京都市、奈良市、和歌山市などが空襲を受けた。

米国側の空襲の際の爆撃手や、偵察機が取った空撮が、30年後から公開されるモノがあり、インターネットでも公開されていて、特に、大阪の写真は多いようですね。私にもどこか判るこんな焼け跡の空撮写真もありました。大阪斜め写真234x300大阪偵察写真300x235
300px-Osaka_after_the_1945_air_raid.jpg
3つ目のは、難波の停車場、中央が、大阪ミナミの歌舞伎座、右下隅のが、当時の松坂屋大阪店でしょう。これら、以外の住宅は、殆ど焼失しています。
そうそう、この米側日本空襲公開資料集には、大阪6月1日の写真おなかに、爆撃後の、偵察機の写真で、もの凄い「炎上嵐」[数カ所のかなり離れた同時火災のバワイに、はじめは各所個別の炎・火柱が上がっていても、上昇気流が戸別のウチは、それぞれたいしたことなく燃え続けるが、、火勢が強くなり上昇気流が天然現象で回り始めル程になると、いくつかの火柱をエンベロープして大きな渦巻きの風となってしまい、各火柱間の未だ燃えていなかった地区まで一瞬にしてパッと着火し、火の海に呑み込んでしまう現象」の写真があります。大阪6月1日炎上嵐232x300
東京夜間空襲でも、名古屋の6月9日の昼空襲でも起こって数千人が巻き込まれ一瞬にして命を落としている。そう、関東大震災では下町被服廠に避難して集まった数万人が一瞬にして炎に巻き込まれて焼死していて有名。廻りからの写真はこれぐらいのモノ。
大阪でもこうして直接空襲犠牲者は、総計1万余名と。
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