スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第48代横綱大鵬逝く!

納谷幸喜さん遺影008scorbitualy_20130126120013.jpg
関脇で初優勝を飾ってから約11年間と言う長きにわたり、柏鵬時代を盛り上げて大関横綱と、不滅の優勝回数32回、先代貴ノ花の小結時代に敗れたのを機に、翌日あっさりと引退した、引き際の鮮やかさ、、、現在でも最強の横綱とされる、大鵬幸喜さんの訃報は残念なことでした。
貴ノ花に敗れ引退へ008mc

丁度その頃、相撲に凝っていた友人が送ってくれた、昭和38年の大相撲の本場所の大きなタブロイド判ほどもある、和紙に木版刷りのあの、相撲番付が4場所分だけ私の手元に残っていましたので、関係部分だけ切り抜きで、お目に掛けておきましょう。
昭和38年5月場所は当時両国でなく蔵前国技館ですね。西張出大関に豊山がいました。
5月蔵前001
この頃はまだ名古屋場所は、7月とは限らず、少しでも涼しい6月下旬の梅雨のうちから金山体育館で始めていました。
6月名古屋金山002
秋場所九月は蔵前に帰って、
9月蔵前003
秋場所は確か柏鵬とも全勝同士の千秋楽対決でロクに稽古もしない柏戸が勝って物議を醸して、九州場所は東方横綱に帰ります。
11月福岡004
こんなそうそうたる大関・関脇陣の中で全勝をよくして30連勝、40連勝と、勝ったのですから、柏鵬時代の両横綱のずば抜けた強さが窺われます。ぁ、そうそう、この4場所の番付で前頭5枚目の潜航艇岩風が3場所の大活躍で関脇に昇進しているのもご覧ください。
ついでにこの昭和38年度の協会理事等の部分も掲げておきましょう。
s38年度取締理事005
現在、双葉山(69)、白鵬(63)、千代の富士(53)、に次ぐ第4位の連勝記録になってしまったが、この生い立ち不運の横綱の、さらなる怪我不運の連続で、3場所も休場に到った揚げ句の、再出場場所のっけの初日、先代栃東の考えた相撲に敗れた、昭和43年九月場所の翌2日目から始まっている。怪我が完治せず、左肘が曲がったままだったりして、やむを得なかったのだろうが、栃東戦の敗戦も考慮に入れて、叩きが多くなり、横綱相撲としては若干見苦しくはなったモノの「忍」の一字に撤し、翌昭和44年3月場所初日迄に45連勝を積みあげていた。2日目、戸田を相手の相撲で、行司からも検査役からも見にくいところ角度のもつれで、戸田に敗れて、翌朝の新聞写真で複数の大新聞社から「誤審!戸田の足が先に出ているぞ!」記事となって、騒動となったが、不運にも連勝は止まった。大鵬は、「そういうみにくい(醜い)相撲を取った私が悪い」と新聞インタビューには答えているが、協会側も、すぐ翌場所から早速当時の最新兵器、ビデオテープの採用を図ることとなった。まさに不運の3乗である。かくして彼の揮毫の文字「忍」の一字は不動のモノとなったのでした。
戸田の足の新聞写真mc
ninn.jpg
現役時代から、ハーフの血、と言う陰の声を、彼は否定も肯定もせずにいましたが、2001年、サハリンの歴史家が、日本統治時代の人別帳を調べてたどり、、、ロシヤ赤色革命の時に、難を逃れ、当時日本領のサハリン、樺太に1905年亡命したコサック騎兵の一団の頭領、マルキャン・ボリシコが彼の父親と判り、その生涯も知らされたようで、既に引退していた納谷幸喜氏はその調査を多とし、感謝の意を込めて、父の故郷とされたウクライナのハリキフ市に寄付を申し出、ここに大鵬記念館が誕生している。又グルジヤの一寒村からの兄弟を受け入れ、それぞれ大嶽部屋と北の湖部屋に預け、露鵬と白露山として小結、幕内にまで育てたが、これまた不運にも、大麻疑惑で、追放処分となってしまった。
しかし相撲を通じて、こうしたサハリンからウクライナ、さらにはグルジアに至るまでの国際友好に寄与したほか文化的慈善事業にも数々の貢献がある故を以て、平成21年度の文化功労賞の表彰を受けている。相撲関係者では初の出来事でした。
スポンサーサイト

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。