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初めての人造樹脂を作った、ベークランド博士のちょいとした挿話と絶縁物の歴史

25年前、手書きパピーニュースNo.8号の混ぜっ返しで恐縮。この頃はまじめにいろいろな化学史を図書館利用して、調べていましたし、ちょうどノルマンデイー在勤勤務中でした。
その中で日本では見つけられなかった挿話でした。電気が、見つけられたのは、古く、静電気とともにかなり古く、異種金属の接触電位差や、それを化学薬品特に酸につけると、電気が走る、ということが、古代文明メソポタミア時代にさえも既に医療に使われた形跡があるということが言われ始めています。
静電気はほぼ解明されて、直流的にはむしろ高絶縁物の両面に二極分化が起こって電気層が出来るために静電気が帯電する、、、とわかってきましたが、、、絶縁物というモノとはどんな歴史があったのでしょう。
今はそこいら中にプラスチックが氾濫していますから、電気絶縁物には事欠きませんが、第二次大戦直後までは、そう簡単にはプラスチックが見あたりませんでした。
広島原爆記念館の焼けただれた洋服に、プラスチックの赤いバラの花のボタンが付いたモノがあるという文を書いたおばさま記者がおられますが、とんだ考証間違いだといえると思います。昭和20年夏現在の戦時中に合成樹脂として存在した人造樹脂は、色のつけられない、ゴム、エボナイト、ベークライト、尿素樹脂しか開発はされて無く天然樹脂もアンバーかシェラック樹脂で赤の着色が出来るはずはなく、それらもまだとてもボタンに成型できるような技術にはとても手が及んでいませんでした。せいぜい堅くてもろい板に出来る程度まで、でした。 当時のもう一つの可塑性成型物の可能性はセルロイドですが、これは爆薬・硝化綿に樟脳を可塑剤として入れたモノでとても引火しやすい発火姓物質、原爆のピカドンの下で燃え残る可能性皆無の代物!デス。本当に赤いバラのプラスチックであるならそれは東京オリンピック以降の昭和40年代以降のまがい物の混入でとても広島原爆とは関係ないモノですね。
戦後すぐといっても8年後の昭和28年にアマチュア無線を開局された、二文字OM神戸のJA3DO塩崎さんは、戦前のアマチュアがやったと同じように、、、5m-TXj2os_20121108133209.jpg
まな板送信機で実験したと、そのブログ(青い字をクリック!)に絵を描いておられます。まだそれほどにモノが裕福には出来ていなくて乾いた堅木は、十分に電気の絶縁板であり得た時代でしたから。中国語では今でのベークライト(石炭酸・アルデヒド縮合合成樹脂)で固めた木質(木繊維や木粉)の絶縁物を「電木」とわかりやすく呼びますね。このベークランド博士が見つけたベークライト樹脂TR)は、それほどに堅すぎて、一寸のことでは、気鋭の鋸も刃がこぼれるほどなのです。
ベークランド博士は、その人造樹脂の研究が何年もうまくいかず、助手を給料の安い黒ちゃんに代えて、それも、かなりどうせうまくいかないからと割と実験さえ間違わなければ叱ることもなく、のんびりやらせていました。この助手はチャーリーといったそうです。のんびり合成実験に従事していたので、チャーリーにも恋人が出来ちゃったのでした。相当のカワイコチャンで、チャーリーもだんだん夢中になりある日博士の実験を仕掛けておいて、カワイコチャンとランデブーに夢中で、予定の時間が過ぎても手が離せず、実験フラスコは焦げ付く寸前!大失敗!、、しまった!とチャーリーが実験室に駆け戻るとまもなく、博士もご入来、フラスコは薄煙を上げ始めていた。博士も何ともいえない渋い顔、やがてフラスコが冷え始めたが、どうにも固まった樹脂がフラスコから取り出せない。仕方がないので、チャーリーは、「今度は堅すぎて失敗です」と正直に謝り、フラスコをゴミダメに放り込んで割って、樹脂だけを取り出しました。樹脂は完全な原形をとどめていて少しも傷ついていませんでした。しげしげとこれを眺めた博士は偉い!「チャーリー君!でかしたぞ、よくやってくれた、後はこれを、鋸や錐で穴が開けられるように考えればいいんだ!失敗どころか成功の第一歩だ!」
そして今度は同じ反応フラスコの中に、おがくずや、紙の粉を入れて反応させ、鋸で切れたり錐揉みの効く樹脂の堅さの調節できる配合を編み出して、やがて工業化したわけでした。それまで存在した人造樹脂板はや絶縁物は生ゴムに半分量ほどの硫黄を練り込むだけの、エボナイト混合物だけでした。有機合成に類する半の生成物で人造された世界の樹脂「ベークライト・マルR」はこんなにして世界中に広まりイギリス「ベークライトUK」はじめ、日本の住友財閥とも組んで「日本ベークライト」等々、主立った先進国には皆「ベークライト」会社が設立されて、20世紀とともに絶縁物の寵児になったわけでした。
その前のエボナイト絶縁物を日本で工業化したのは、戦後も長く絶縁板、印刷回路板用の銅張積層板製造会社として頑張った利昌工業で、一時期のガラスエポキシ絶縁板・銅張ガラエポ板でも、草創期のエボナイト絶縁板を記念するために、特筆すべき、独創的な「ブラックG10」という黒色のガラエポ商品を記念銘柄として加えていました。
エボナイト以前から以後までの時期には、天然物の応用と、磁器陶器(現在も超高圧などの碍子などは特に、また電子部品用に)が主な、絶縁物、、、の時代でした。天然物では、硫黄、ゴム、シェラック(カイガラムシ分泌物)や松ヤニ樹脂、絹/綿の糸・布、、、、とその応用デスね、戦後すぐまでは、絹巻線、綿巻線、がありましたし、綿布や和紙にセラックワニスや松ヤニワニスを含浸させた「エンパイヤクロス」「エンパイヤ・チューブ」(いずれも日東電工の前身会社マルR)、実はこれは日本でも特許が戦前成立していますが、おかしなことで、日本には、既に江戸時代中期から、布や和紙に、漆や柿渋や、また松ヤニ樹脂などを油に溶かして含浸させる一閑が発明した「一閑張」(青い字をクリック!)が存在しほぼ全国に知れ渡っていたことで、ほとんど公知公用の技術だったにもかかわらず、たまたま特許の担当役人が不勉強で、一閑張りのなんたるかをよく調べもせず、頑張ってしまったモノのようです。
引き続く人造樹脂では戦時中には、尿素樹脂が日本でも作られていましたが、水溶性と、有機溶媒溶性の接着剤程度のモノで、まだとても成型用には及ぶべくもなく、水素気球爆弾用の気球の和紙や羽二重布の貼り合わせや水素の抜け防止含浸には尿素樹脂も使用されたとの説もありますが、コンニャク芋糊が主要な含浸ライニング材に使われています。この戦時中には、ビニール系の樹脂の研究もあったようですが、せいぜいポリヴィニールアルコールなどの系統で、ポリ塩化ヴィニールの登場は、この合成法が完成した戦後を待つしかなかったようでした。
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テーマ : 雑学・情報 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

人造樹脂

はしごフィーダーを作るのに割り箸にパラフィンを染み込ませていたのは
人造樹脂が無かったためでしょうか、
今ならわざわざそんなことをせずにプラスチックの板でいいのですね。
私のACコードフィーダーも100円ショップのビニール袋の
口を止めるクリップ〔8個入り〕で、はしごフィーダーに変身させました。。。

人造樹脂

Ji1ekdさん、コメントありがとうございます。おっしゃるとおり、そういうことですね。戦前からベークライトはありましたが、重いばかりか、後加工が困難で、素人細工は出来ず、また、加工面が濡れると水がしみこむなど屋外使用には向いていませんでした。また乾燥状態でも高周波的には精々16-7MHZまででした。塩ビが昭和30年代の前半に売り出されていますがこれも直流的には絶縁材ですが、組成的に、電解質挙動の安定剤・可塑剤が使われていて、高周波的には不安定化しがちで、精々20MHzぐらいまでのモノでした。高周波的に安定なモノはやはりポリエチレンやポリプロピレン、400メガ以上まで大丈夫ですが熱には耐えませんね。ポリスチレンもせいぜい50メガまで、これも熱や衝撃には弱い材料です。プラスチックには、一長一短が多く材料の選択には頭使いますね。

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