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江戸時代技術史余滴「もったいない」リサイクル事情

江戸時代は、幕府の禁止令などが、出ていますが、それ以外は自由であったというわけではなく、侍社会に連綿と続いた自律礼儀早く言えば「恥を知れ!」に基づく「しきたり」(悪く言う人にとっては「封建主義」ですが)に律せられた、か細い、資材に乏しい経済社会の許された範囲内での流通で、お互いみんながなんとかぎりぎり生きていくための必死のルール生成によって、なんとかよりよい生活をしようと、知恵を絞っていたのです。幕府の大きな禁令の一つには「新規御法度」と言うことはあり、大きな竜骨船の建造、4つ車の製作並びに使用などは、厳禁でしたが、日常生活でのものの節約になること、又それによって日常生活は却って便利になること、つまりリサイクルなどは、「新規御法度」には該当したことにはなっていません。
講談や落語と言った、日本固有の古典芸能が、結構こういう微妙な文化や日常生活の機微の一端をそれとなく伝えています。これが廃るだけでも資料源の大きな逸散と言うことにもなりかねません。
講談と落語の双方で、共に有名外題(げだい)として伝わっているモノとしてのたとえば井戸の茶碗(いどのちゃわん)など、話としては、真っ正直な老若二人の侍と、その間で屑として払った仏像を心ならずも扱った正直者の屑屋清兵衛のまっすぐ正直者3者が角突き合わせて、「恥を知れ」文化に生きる「正直」であろうとする諍い、などはその両面の貴重なこの時代の諸情報を与えてくれます。白金の細川屋敷の侍部屋の窓下を通る屑屋が毎日は同じ顔ではないが、半月から3週間で自分の縄張りと決めた江戸御府内をほぼ一回りするらしい、高木という若侍のちゅうげんが一々屑屋を呼び止めてほおかぶりを取らせ、清兵衛かどうかあらためるが、、、一日に、30人から40人が通ったというから、一日に御府内のどのくらいの範囲を歩き回れるモノか、、の推定から、江戸御府内に少なくとも3-400人の屑屋が雨でない限り歩き回っていたと推算できる、、等々興味は尽きない。
青井戸の茶碗(根津博物館蔵)青井戸の茶碗
リサイクル回収業なども、落語や講談で、物売りの声の紹介で、「鰯売り」のあとを篩い売りが「篩い(ふるい)と触れた歩くのでケンカになろうとすると、、、「フルカネー!」と古かね買い取り屋が現れて難が消え去る。火事場あとの鎹(かすがい)焼釘などは貴重な金属資源であり、鍋釜の小さな穴は「鋳掛け屋」がその場で簡単に直すが、焦がしまくって底の抜けたナベ釜などはリサイクルに当てられた。
紙くず籠が現代でも屑籠の代名詞であるように、屑籠背負い籠
江戸時代も紙のリサイクルは、その最たるモノ、上記井戸の茶碗の屑屋清兵衛も、「自分が売り買いして儲けるというコトは、売った方か買った方に損をさせることになって申し訳が立たぬから,,とて、モノの買い取りはしないで紙くず買いに徹している。なんとか正直突き通しても苦しいながら身過ぎ世過ぎ出来ていた、、、と言うこと。墨などで字が書かれた汚れ紙はカラスと言呼び、くしゃくしゃに丸められていても障子の張り替えなどの白紙は白紙として屑の仕切り場で仕切られて、別々に処理されてリサイクルされていたようです。紙がリサイクルの始まりで、このほか、専門のリサイクル屋が扱った唐傘の破れ傘壊れ傘や、同業者が工夫して2度三度のご用に立てる複数回リサイクルの典型割り箸まで庶民の[もったいない]イズムは、知恵の限りの応用が図られていたのです。
一つには、幕府のお役人の知恵は頼りもならぬので庶民の知恵で、自分たちの身過ぎ世過ぎの稼ぎどころの仕事が作れないか?、、「雇用の創出」を自治体や人任せでしょうがないと放っておくいとま・余裕がなく待ったなし、このことを真剣に考えていたと言うことでもあります。何より資源は限られ、流通は細い、さすれば自分たちの足で、破れ傘・壊れ傘を集める仕事から始め、「骨は骨、皮は皮、バラバラにして、寝かせてあります」と落語「金明竹」で与太郎が間違う通りに、素材近くまで戻して、再生する、、、この仕事が結構手間がかかり職人的技量もいったりするが、、、雇用の創出につながるわけです。この骨組みの再生が出来れば、あとの紙貼りなどはさほどの技量は要らず、浪人やひま侍の手内職などで、傘貼り仕事が出て来たわけですね。これを傘屋が引き取って、油を塗って干し、大店の顧客の急な雨の時の貸し傘にするための注文を受けて、広告をかねて店名を墨痕鮮やかに達筆で書き込み、お店の傘置き棚に順番に置いておく必要から、大店の貸し傘には一連番号も書き記してあったために、この再生傘や安物でも丈夫そうな傘は、番傘と呼ばれて、これが現在でも名前だけが一人歩きして、「唐傘又は番傘」になってしまっているんですね。江戸庶民の知恵の一端です。
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又大坂には、大黒屋と言って「なんである、アイデアル」でもないがアイデアちょっぴりの傘をを売り出した傘屋があり、ほんのちょっぴり骨太で、骨本数をとても36本はないぐっと少なくしてその分軽めにして一回り大きい傘を、「二人乗り」用として発売し、結構西は岡山の先まで売り広げており、が、岡山では傘に入れていって貰うときに「傘に乗せてってぇ!」と声をかけるのが方言的に残ってます。逆に関東ではこの骨本数少ない細骨の粗雑な下卑た傘が大黒屋傘の名として残っています。所変われば品変わる一例です。
江戸時代から二八蕎麦や屋台の一杯呑み屋でも、かなり古く割り箸が、清潔感で珍重され、これを一端を口に咥えて片手割りするのが江戸っ子の気っ風に合う、まあ粋な所作とあって、一気に需要喚起、毎日大量の割り箸と言うより使用済みの「割られ箸」が出るわけです。割られ箸
これは洗っても清潔感にはつながらないから需要はない。同業者同士でまとめて、最初から割り箸を少し太めに作っておき、洗って干して削って、バラ箸として店屋で二度目の再利用する。今度は汁汚れ味噌汚れで色変わりまでしてしまったり、、するが、そこは知恵の見せ所、削ってもダメそうなモノは、磨いたあと、よく乾かしてサイズをそろえて、塗師屋に留め漆で安く仕上げさせて塗りの箸にして又なんどか反復店屋でつかえる様にする。まさに「もったいない」の権化!と言えよう。同業者同士の息も合うという副産物も出る。
個人的な再生業では、上記の鍋釜の鋳掛けや、キセルのラオすげ替え、下駄の歯入れ、茶碗の割れかけ直し、これは大道ではなく修理屋が受けて持ち運んだようですが、、、当時は「白玉粉」という冷たいお団子作る粉と同名で、水で固く練って、茶碗をつないで乾き加減を見て、竃火で焼いて焼き継ぎする、無機質で焼付型の接着剤が左官の棟梁らの共同開発によって寛政の頃既に開発されていたのでした。うっかり下女が割ってしまった大事な茶碗抱えて外に出て奥さんや主人に知れぬように、小声で焼き継ぎ屋を呼ぶ川柳。
『持って出て下女が囁く焼継屋』(五色墨)
守貞漫稿(喜多川守貞 嘉永6年 1853年)に『昔は陶器の破損は皆漆で補修したが寛政の頃、白玉粉で以って焼き接ぐ事を始めた。今も貴重な陶器及び茶器類は再び竈で焼く事を好まないので、漆で以って補修して金粉を粘じるが、日用陶器の類は焼き接ぎを専らとしている』とあるそうです。宵越しの金は持たない気っ風の江戸っ子は日雇い、その日暮らし、資産は飯台代わりの横ったおしにしたみかん箱がありゃいい方、その上に茶碗と塗りのはし。この茶碗がぶっかけりゃ焼き継ぎするしかしかないわけでした。勿論
ここにも見える漆継ぎ、金継ぎももっと昔から使われていたのですが。お金がかかるし又壊れる。
「もったいない」の心は江戸っ子の気っ風と背中合わせ、結構古いのです。
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テーマ : 雑学・情報 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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