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昆虫記、将軍家茂、蛋白質、 三題噺

戦争やら飛行機話題が続きました。少し息抜きしましょう。少年時代に夢中で読んだファーブルの昆虫記、13代紀州藩主から14代将軍になった徳川家茂、そして蛋白質?、、、どうつなぎましょうか?
そうそう、私の少年時代は既に70年の昔、昆虫記のスカラベは単に「ふんころがし」「タマオシコガネ」としか書いてありませんでしたが、今は同定されて、エジプト太陽神の何かに似ていることから「ヒジリタマオシコガネ」と分類名を言うのだそうですね。
sukarabe.jpgツタンカーメンの胸飾り(ジェムストーンとスカラベのツタンカーメンの胸飾)rogokuro.gif紀州徳川家の家紋は3つ葵でもチョイ変わり。245px-Mulberry_20080721b.jpg
一番下、判りますか?
戦時中まで日本の別名とまで言われ、住友系の会社の冠名だった「扶桑」、勿論起こりは中国、、、昔空には、10コの太陽があった、燦めきすぎて、畏れ多くて、1コにしてあとの9コは消していただいた。そうです。桑の実です。蛍光オレンジほどの輝きから丁度お日様の子供の絵のようなトゲもでて、この頃は酸っぱくてとても食べられないですが、灯が消えて黒紫に実る頃は、甘酸っぱくなり、赤とんぼの2番の歌詞のように「小篭の摘んだは幻か、」でした。人絹(人造絹糸と言いました)が弱くてどうしようもない頃まで、お蚕さんの紡いでくれる、絹の糸は、天然の作る上質の蛋白繊維、天然ナイロンとも言うべき物でした。今も「帝人テトロン」などと、TEIJINやJINが残っていますが、この人は人絹つまり「人造絹糸」の頭文字だけのなれの果て、今に何のことだか判らなくなることでしょう。この三題噺はここから紡いでいきましょうか。ヴィスコース人絹やステーブルファイバーのカタカナ略語、「スフ」は弱くて直ぐすり切れる、代名詞でした。「正絹」がナンと言っても本物でした。お蚕さんは中国では、5千年の昔から人間と共にあり、桑を植えて葉を食べさせる虫「こ」日本語ではそれをウチで飼うから[okaiko]蚕。(海にいる虫でおいしい虫は生で食べる「こ」だから「なまこ」、そのはらわたは、もっとおいしいアミノ酸の宝庫「このワタ」,,、デス)蚕
桑の木にも葉にも、他の植物よりホンの少し多いだけですが、より良質の蛋白質が含まれています。桑の木の成長は早いですが、江戸時代の御蔵島や三宅島など、伊豆7島の桑の大木は、江戸指物の逸材として、又特にびわや、三味線の胴材としては欠かせない締まるにつれて黄味を帯びたいい色合いになる高級材だったようです。木質としてだけでなくこの良質の蛋白質が、お蚕さんの吐き出す絹糸をはぐくむのです。明治から昭和の初めまで、日本の輸出額の半分以上を稼ぎ続けた生糸、絹布、絹織物、、、産業の大根幹だったわけです。日本の地図記号に、こんな記号が残っています。ご存じでしたか?100px-Japanese_Map_symbol_(Mulberry_field)_svg.png((正解:桑畑))
此の人類の歴史と共に、繊維をヒトに提供し続けた蚕が、、、ヨーロッパで、伝染病で、全滅の危機に瀕し、フランス、イタリーなど絹織物産業が必須の國があわてふためいた時代があります。フランスのナポレオン3世皇帝の時代でした。人間の伝染病と言えば当時はナンと言っても第一人者パスツール教授、「蚕の伝染病も面倒見ろ!急げ!」の命を受けて、転がり込んだのが昆虫学者ファーブルの所、ファーブルはこのときのことも昆虫記に呆れて少しだけ書き込んでいるようです。パスツールははじめ、蚕が4回も眠っては脱皮を繰り返したあと、繭を作って自分は「その中でサナギになる」ことを知らなかった、と。
そのとき、ファーブルは少し気分を害しながらも、パスツールに、そのため離れ小島の日本のタイクン・イエモチから、伝染病のない筈の蚕と種紙がナポレオンに献上されたはずだから、それと病気の蚕や卵と比べれば、何か判るだろうと、助言したということです。これで、パスツールは病気の蚕の卵の中の液には顕微鏡で微粒子が浮いていることを見つけて、寄生原虫の卵と推定、後の世に残る蚕の伝染病「微粒子病」の原因と被害卵の監別法を一挙に見つけて、、、親虫、卵を一挙に選別駆除して、日本から種紙を大量に買い付けて、、、ヨーロッパの蚕の復活に多大の貢献をなしえたようです。サッカーでいうなら、真っ向ゴールに蹴込んだのはパスツールでも、ファーブルの右奧からのアシストは、それにも劣らぬ偉大な足スト、、、と言えると思います。将軍家茂からの蚕と種紙の献上は、大奥からのロング・ドリブルだったととでも、、、。申し添えますと、このときまで、欧州や中国の生糸は、色つきが多く、日本のは純白銀白が主体だったようです。
繭の色
このためもあって、幕府が正式に開港せざるを得なかった安政6年頃から、蚕種紙(厚手の和紙に蚕蛾を這わせて卵を産み付けさせた紙)・絹・生糸の日本からの輸出額は際立って増え続け始めているようです。更に、明治にはいると、維新新政府の世界各国と幕藩各藩との不平等条約の一日でも早い改定へ為の肩代わり、生糸、絹布による借財弁済まで含めて、更に膨大な輸出額になります。
この養蚕業は、徳川幕府になって直ぐ、全国的にお触れがでて、殖産という言葉と共に桑畑の開墾増殖と戸内養蚕の奨励、がモットーとされたわけですが、家康の最後の豊臣狩り、大阪夏の陣に著功があった、諏訪藩の二代目忠恒が5千石の加増賜るに際して、「諏訪高島は、桑の葉が細いと聞く、山桑を改良しては如何かな?」と家康から言葉掛けがあったらしい、、このために加増分を賭けて、山桑の切れ込み葉を品種改良してほぼマル葉化して成功し、以後3万2千石の小藩ながら、昭和の初めまで繭の品質では常にトップ評価,出荷量でも上位を続けている。となり藩などがこの桑の実の鳥運びによる影響で、広葉の良質の桑の恩恵に与っていく。特に関東西北部に上質生糸の生産が広まっていったのです。昭和のはじめまでの分析評価で、この理由としてこの桑の蛋白質の有効成分とその含有率が抜群であったという、、、。
三題噺、如何でしたかな?

--★--★--★--
警戒警報! アヴィニヨンにも、アンリ・ファーブル街はありますが、、、パリにも、アンリ・ファーブル街があります。フランス人の大半が、アンリ・ファーブルって誰?、、か知りませんが、クリニャンクール門の先、かの有名な蚤の市のファーブル街なら、、、殆どのフランス人がスリ、かっぱらいの多い町と知っています。被害に逢うのは何故か現金を執拗に持ち歩く日本の観光客が殆どです。クワバラクワバラです。シャレにもならないか?!
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