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終戦直後が食糧事情が更に厳しくなったワケ

吾々の世代の方で、戦争末期より、終戦直後の方が更に食料や物資の配給が厳しくなっちゃったんだがどうして?と不勉強なコトいう人がいるのですが、、、確かに状況としてそういうことに陥りました。その通りでした。経済的には細い闇流通のために、物価は高騰し、インフレ状態。モノは売ろうにも買おうにもなんにもない状態。コレが今の若い人には通じない、、、「なんにもない、ったって、何かはあったでしょう?」、、と必ず言い返される。モノがない流通が阻害された極端だったと言うことが、どうしても理解の彼方なのだから。
その通り、空爆以外の戦闘機などによる、交通の要衝への攻撃に春の終わり頃から、陸軍戦闘機P-51Bや双胴の悪魔と言われたP-38が硫黄島から長躯来襲するようになり、前者は日本上空滞空僅か10分間、後者は約40分間の滞空余裕を持っているとされた。これらが、爆撃目標対象から外れた田舎町の借り上げ徴用軍需工場などをしらみつぶしに攻撃しに昼間、やってくるようになったんでした。名古屋の西20kmの元紡績工場が、5月の中旬超低空で侵入してきた2機のP-51Bによって突如、銃撃されました。
p-51B 機銃掃射mc003
吾々が軍事教練や防空監視教育で教わった米軍機の機影のシルエット集には、当時P-51はありませんでした。コレはアメリカが英国の英仏海峡防空用に輸出している短距離防衛用輸出兵器だったからです。ところが英国はコレを、ロールスロイスの新鋭、小型高出力1460HPものマリーンエンジンというエンジンと換装して、機銃を機関砲6門に付け替え更に2コの落下増槽で航続距離を飛躍的に伸ばし、ドイツ攻撃用爆撃機のエスコート戦闘機に仕立てていたのでした。アメリカは、早速コの真似して、自動車会社パッカード社にロールスロイスのマリーンエンジンをライセンス製造させ、2コの増槽も付けさせたら硫黄島から日本の名古屋までは飛んでこれるようになっていたのでした。後のP-51Dの様なスマートな機体でなくドイツのメッサーシュミットBf109Bf109E日本輸入機と富士mc
(写真は昭和16年日本に輸入されて川崎航空機で組み立てられた2機のBf 109E-7(エンジンDB601A1100HP搭載プロペラシャフトを機銃が通せる)のウチの1機(着色写真と思われる))
のような無骨イ、真っ黒の機体でしたから一瞬なんだこの飛行機?でした。それがいきなり両翼の前端から真っ黒の煙を吐いたのです。一瞬「ヤッタア、」と思ったのもつかの間、音速は1秒間に340mほどかかりますね、1秒後ダダダダ、、、と機関砲音、機関砲がこれだけの黒煙を吐くとは思いもよらない黒煙を噴いて、通り過ぎました。
自転車は既に、昭和16年の夏以降に福岡県と愛知県は、各5万台宛の自転車をマレー快速南下作戦の銀輪部隊のために供出させられて、町には払底していましたから、吾々は工場食料の買い出しも資材の運搬も人力リヤカーで、2人がかりで運ぶのが通例で、、、この日も丁度土手の所から伏せて、この上掲の超低空機銃掃射を見ることが出来ました。コレが最初で、その後P-38や海軍艦載機F4Fの攻撃は頻繁になりましたが、P-51はあまり来なくなったようでした。鉄道拠点のTBF攻撃機によるナパーム焼夷爆弾はその後、6.7.8月と艦載機攻撃が激しくなるにつれて、頻度が増していったんです。

米占領軍は、ごく当初は、海兵隊や陸軍攻撃部隊がいましたが、、、GHQの軍政が始まり、統治部隊との入れ替えが始まるにつれ、攻撃戦闘部隊の徹底破壊が恨めしくなったほどだったようです。一寸ピントはずれますがこんな話を聞いたことがありました。マッカーサーは、日本の運輸方式が殆ど鉄道によるモノだと聞いていて、鉄道の路線復旧して、アメリカから中古の貨車を中古のリバテイー船に積んで持ってくれば間に合うと思いこんでいた節があり、鉄道部隊との会議指示で大笑いの種にされた、、、と。日本の鉄道の軌間が世界一の狭軌でアメリカの貨車にしろとても鉄橋もトンネルも通れない、すれ違うコトさえ出来ないとは知らなかったそうで!

余談になりますが、勝海舟は、咸臨丸の艦長を務めて、日米通商修好条約の幕府派遣使節に同行して米国の見聞して帰って幕府の偉いさん方から、ご下問があり我が国とかの國と、どこが違うかね?」「それぞれそこかしこ違いますが、、、「一番の違いと言えば、上に立つモノほど賢いモノが立ちます」と幕閣連を皮肉ったという、、、

但しこの中古のLST型輸送船「リバテイー型」は日本の復興と、もう一つの大きな課題「帰国復員引き揚げ者の輸送」に大きく貢献することになったのでした。

終戦時点で、海外旧領土占領地などに軍人軍属約200万名の他、旧領土に入植居住していた帰国すべき人員が約400万人総計600万人以上(復員局最終集計約629万人)を帰国搬入の必要があったのでした。軍人軍属の方を復員と呼び、入植居住者の帰国を引き揚げと呼びましたが、政府機関としては、復員局が出来てこれらを一括仕切りました。海外からですから船が要ります。旧海軍の艦船の兵装を武装解除して甲板や格納庫に居住区の拡張新設などして、大は航空母艦葛城(最大収容人員5000人)鳳翔の2艦、はじめ、
空母葛城と鳳翔mc
潜水母艦長鯨1、軽巡3隻、駆逐艦27隻、海防艦59隻、補給艦(戦後完成進水の13艦含む)43隻、給糧艦4隻、特務艦・敷設艦10隻、水雷艇掃海艇3隻、等々計160隻が復員艦船として活用されました。病院船、氷川丸、高砂丸、菊丸3隻が、加わり、さらには、昭和18年に帆船の女王日本丸が徴用されて、帆柱を外されジブクレーンに付け替えられ、デイーゼル機関も大きいのと換装されて、瀬戸内海行きの石炭運搬船になって居たのも復員船として合計2万5千人以上を運ぶなどの記録があるようです。250px-Nihonmaru_1_20120906231645.jpg
兎に角、昭和20年10月にボツボツと始まった復員は、1年余で漸く最盛期を迎え、昭和22年に入るや、上記160隻の他にLSTを約40隻投入するほどのピストン輸送となり、9ヶ月間でほぼ460万人を帰国させています。これらの帰港地は限られた数の港湾で、そこの人員増に食糧給食せねばならず、鉄道の復旧と車両の確保を優先して、復員、引き揚げ者を一日でも早く、地方に分散を図らねばならず、その返す列車で又食糧を運び込む必要があったのでした。GHQはこのため、製鉄製鋼業へは最大生産を指示、鉄道車両会社と造船業への優先供給を指令、復員局は又これらの産業への帰国労働力の就職斡旋指導を始めていたのでした。鉄道の諸施設修復、鉄道車両の建造、海運の回復のための機雷除去掃海、船の修理、建造は、焦眉の急だったのでした。
こうした中での22年2月1日の全労連・総評の片山内閣への「米寄越せ!」ゼネストの構えは、GHQに取っては、「お前ら何ゆうてんねん、鉄道の修復かて船の修理かて、駐留軍の大工作部隊のお陰で出来てんだっせえ、米が早おほしかったらもっと1日でも有効に働らかんかい!」と言いたいところだったでしょうね。GHQの厳命で、ゼネストは回避されました。復員船は一日でも早く諸外国に平和をもたらすためにせっせとピストン輸送したのでした。しかし国内の鉄道事情の改善は相変わらず遅々として進まず、復員列車はすし詰め屋根の上までヒトが乗ろうかという状態が続いたのでした。
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テーマ : どうでもいい雑記 - ジャンル : その他

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