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学童疎開船「対馬丸」の悲劇

昨日から数えて丁度68年前、昭和19年8月22日(火)米潜の魚雷1発(米潜の報告書では3発で轟沈(10分以内に沈没)になっているヨシ)が命中、日本郵船の学童疎開船が沈没、千数百名中、1476人が亡くなり、翌朝漂流中、上空を通りかかった海軍機の機転による無電通報と、近くの漁船に対しての通信筒連絡等で、付近にいた複数の漁船誘導で漂流中の数十名(艦船要員とも177名中,学童59名)が救助されたという、、、
海域は、悪石島北西約10km,,,といったって判る人は少ないでしょう。先ず地図、、、
漂流発見海域001mc
がじゃ豆というトカラ列島特産土産で有名な臥蛇島から南約50km、、、2009年7月22日6分25秒という世界最長皆既時間の日食が見られると、人口の2倍以上の1200名もの観光客が島の規制無視して漁船チャーターなどで押し寄せパニックに陥れたバチが当たって、当日日食時間中だけ猛烈な暴風雨が吹き荒れ観光客がパニック、、、悪石島。
この島の名の由来は、コレ、この爆裂火口の石,,,
悪石の言われ爆裂火口の石
今から13年前の1999年の8月の22日の記事から引用、、、
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きょう対馬丸遭難から55年目/手紙に込める平和への祈り、元操縦士と生存者の平良さん1999年8月22日 【大宜味】1944年8月22日、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した学童疎開船「対馬丸」の遭難時、上空から遭難を通信基地に通報、漁船を現場まで誘導した元海軍航空機の機長、長谷川春一さん(76)=愛知県津島市在住=が対馬丸生存者で講演活動をする平良啓子さん(64)=喜如嘉在=あてに手紙を送り、犠牲者を悼む思いをつづった。22日は対馬丸遭難から55年目。「大変な命の恩人」と平良さん。長谷川さんは「戦争が終わっても惨状は忘れない。一人でも二人でも生きて帰ってという願いだった」と胸の内を語る。
長谷川さんは当時、901海軍航空隊大村派遣隊所属で長崎県大村基地に待機。対馬丸が沈没した翌日の8月23日正午すぎ、対馬丸の先導を目的に、航路向けに飛んだところ悪石島北西約10キロの地点で漂流する遭難者たちを発見した。
機長の長谷川さんはすぐに、「遭難者発見」の無線を佐世保鎮守府に発信。同乗した鮫島国光さんとともに「ガンバレ、救助手配ス」と記した通信筒を海面の人だかりに落下させた。続けて、第二、第三の通信筒を投下。その後、悪石島近くで発見した小型漁船に、通報を入れ現場まで誘導。さらに、別の漁船を発見、同様の通報を行った。
対馬丸が沈没した翌日、現場付近を飛行、助けを呼んだ飛行機の記録は証言録の数カ所に記されている。元教諭の長谷川さんは退職教員機関誌のインタビュー記事で、平良さんを知り、昨年8月に手紙を寄せた。以来、手紙で交流を続けている。平良さんは「私は漂流中に飛行機に助けを求めた。今思えば通信筒を落とした人が長谷川さんだったのか」と記憶をたどる。
燃料切れのため、飛行機は、漁船が一人二人と船上に引き揚げる様子を確認して別れを告げた。長谷川さんは最後まで後ろ髪を引かれる思いだったという。「1日も早い対馬丸の引き揚げと犠牲者のめい福を祈る」と平良さんへの手紙に記す。対馬丸の記憶は重く、約40年の教員生活で長谷川さんは、子どもたちに平和の尊さを絶えず説いてきた。
長谷川さんは「慰霊碑に参拝して、遺族の方にお会いできれば」との思いを抱く。平良さんは「私は亡くなった学友の分まで生きている。長谷川さんに会ってお礼が言いたい」と語り、対面を心待ちにしている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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対馬丸
船歴
起工
進水 1914年9月[1]
竣工 1914年12月22日[2]
1915年2月22日[1]
その後 1944年8月22日沈没
主要目
総トン数 6,754トン[3]
載貨重量トン数 10,615トン[3]
全長 135.64 m [3]
垂線間長
型幅 17.68 m [3]
型深 10.36 m [3]
吃水 8.19 m (満載平均)[3]
2.71 m (空艙平均)[3]
主機 三連成レシプロ機関 2基2軸
出力 4,396馬力(最大)[3]
航海速力 11ノット[3]
最高速力 13.9ノット[3]
乗員 61名[3]
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)8月22日、政府命令による学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没し、犠牲者数1476名を出した。

出展:上に同じ
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というわけです。
この事件の記念館、慰霊碑について那覇市のサイトから引用
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6.jpg
対馬丸記念館の建つ那覇市旭ヶ丘公園には、対馬丸犠牲者の慰霊碑「小桜の塔」を始め、「台湾遭害者の墓」「戦没新聞人の碑」「海鳴りの像」など、多くの碑石類が存在します。対馬丸撃沈事件を沖縄や日本の歴史の中に位置づける学習に、これらの碑を活用し、旭ヶ丘公園全体をフィールド学習の場に創り上げていきたいと考えております。また、平和創造にむけたあらゆる取り組みに対し開かれた施設としてあり続けたい、対馬丸記念館は「見る」だけでなく  「活用する」場所であり、思いを同じくする人々が集える場でありたい、というのが記念館を運営する財団法人対馬丸記念会の目指すところです。
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尚、操縦士だった長谷川春一氏は、吾々の息子娘達の時代に津島市のいずれかの小学校長を勤められ、その後も津島市にお住まいだったようです。当時息子達の小学のPTAの役員を何度も務めたという奥さんによれば、とても優しい心遣いの豊かな先生だったと評判だったそうです。
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