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大八車は牛車からの発想創造物だった?

20年以上前の手書き「パピーニュース」の頃の得意ジャンル「江戸時代の技術史」的脱線してみます。
運搬2輪車は、平安時代の初期から、存在したと考えられています。既に高貴な人の乗り物として、牛車(ぎっしゃと読みます、ぎゅうしゃではありませんョ)が存在したのです。幼稚な、2輪車を飾り立て、非力な公家系の人間に代わって、高貴な動物とされた牛に曳かせたわけです。ところが、死体の運搬という仕事もあります。高貴な人間でも死ぬことは同じだからです。甕に入れたりして、孟宗竹や棒2本で挟んで、担ぐのが下々の葬式に対して、高貴な方は戸板車で運んだような書き物があるらしいのです。コレが2輪運搬車なので大八車の発祥と主張する学者にはどうにも反証のしようもありませんが、、、「大八」車の名前の一つの起源ともされる、「大の大人8人力分の荷物が運べる」頑丈な枠組みの荷車とするならば、牛車が発想起源としても、その起こりは、江戸時代を待つしかないようです。gissyamc.jpg
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オート3輪潜在需要が関東大震災の復興に必要と読んで「くろがね号」が誕生したわけですが、、、牛車を、資材運搬用に牛車大工八左右衛門に再設計させ、牛持ち人夫を京から江戸に呼んで、寛永11年、芝の増上寺の再建普請に資材の強力な運搬手段として大いに役立てたのが牛車の荷物2輪車としての最初、決断して実行したのは幕府開府後の徳川家康だったようです。家康は薨じますが、牛持ち人夫と牛、運搬牛車は、牛込牛町に残ります。
現在でも、2輪牛車は、北海道東北の酪農家の干し草運搬用などに残っているかのようです。
コレが、次には、江戸の町が、迷路のような細い路地が発達して、大火がおきた明暦の大火の後の、復興に当たって、八左右衛門の牛車設計図を、幅狭く作って路地まで入れるように改変すれば、復興資材運搬用に便利と取り上げられて、まもなく大いに普及し、江戸の町には、約2300台ほどの大八車が走るようになったといわれます。こうなると、道交法じゃないが、大八車の車両間隔の規制まで、、なされたようですし、ついに人をひき殺す事故まで起こって罰則が、今の道交法よりも厳しくなっています。車の曳夫は有無をいわせず死罪、押夫は遠島、荷主にも相当重い罰金が容赦なく課されたようです。
上に掲げた大八車のカラー写真は、まあ軽い荷物用の再現仕様のようですが、江戸時代の米俵用や酒樽、味噌樽用などの重量運搬用は、もっと頑丈な、堅木の縦材を使って枠組みして撓みを少なくした、材料力学的にも良く吟味された作りであったようです。これだけ重い車自重に重い荷物を積んで、梶棒を腰と肩縄で曳き、後は荷の慣性惰力に負うところが多かったわけで、梶棒を握る弾き手はそれだけの慣性惰力があることを十二分に知って、先触れしながら曳けということであったようです。重心を知って荷積みし、荷崩れの無い様にキッチリ縄掛けしてから、曳き出す、ここまでは荷主も共同責任、ということのようですね。押し子は、坂道下りでは、ブレーキをかける留め棒を旨く操作できねばならなかった様で、ここら辺りの、曳き手押し子の苦労は相当のものだった、有無をいわさぬ死罪というのは、「船の船頭の責任の重さを思えば当然、」と合理的で人情派のあの、とは思えぬが、大岡忠相が進言したといわれる。留め棒と思われる棒と大八車の写真です。大八車構造
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