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プロペラ時代の航空機用エンジンのおはなし

名古屋の大空襲の項で、日本空襲の指揮をした、米空軍指揮官、ルメイの無知ぶりを扱き下ろしましたが、空気の希薄な成層圏を、その薄い空気で、内燃機関たるエンジンを充分働かす仕掛け付きで、しかも飛行機用に、空気抵抗を減らし、且つ、馬力当たりの重量を軽くするために、発火しやすいマグネシウム合金を多用するという、2重3重の手枷足枷条件だらけでのB-29用のエンジンの開発は、さすがのアメリカのトップレベルの航空機用エンジン専門工業技術者にとっても難事業だったようです。特に、低空での空気抵抗を減らすために、発動機覆い(=ナセルと言います)及び特にその先端部の空冷エンジン冷却空気取り入れ口カバー(=カウルといいます)の口径をぎりぎりまで極端に絞った設計であったことも、超高空用空冷発動機にとっての命取りになりかねない厳しい条件で、第2次大戦開始前から2大航空機用エンジンで有名なった居たサイクロンエンジンのカーチス・ライト社と、ワスプ・エンジンのプラット&ホイットニー社のみが、開発競争指名の対象でした。こうした設計難条件に機体完成時期までにかろうじて合格した2段過給機付きのエンジンは、カーチスライト社のデュープレックス・サイクロンと呼ばれることになるこの引用写真の2200HP見当のエンジンで、240px-Wright_Cyclone_GR_3350_1.jpg
狭いカウルと、ナセルの中では特に後段上部の数気筒の空冷が十分でない、発火しやすいエンジンだったことも、ルメイの誤解を呼ぶ元だったようです。この時点ではP&W社のダブルワスプの方は、2段過給器がなせるの中に収まらず、1段過給器でなら、、、という状態で、カーチスライト社のエンジンが、無理無理採用になっていたという事情にあった様です。コレが印度の飛行場では、地上滑走中にキャブレーターが火元になってエンジン発火が多発する、という最大要因のようでした。
「印度兵の整備不良を気候のセイにするな」と初代B-29飛行隊長ウオルフをクビにしてしまったあとで、ルメイは、P&W社に接触し、ダブルワスプのその後について聴取し、キャブレーター方式では冷却が十分に行き届かないこのエンジンでも、印度なら同じように発火の危険は避けられないと聞かされ慌てます。ダブルワスプと呼ばれた、デュープレックスサイクロン級相当のエンジンの日本のイラスト画家の素晴らしいイラストを引用しておきます。
PW R2800 イラスト003
コレがその後、カーチスライト社も、キャブレーター方式止めて噴射ポンプに改造するエクスキューズとなり、テニヤン・サイパン配備のぎんぎらぎんの無塗装機体になる頃から、ライト社もキャブレーター方式を止めて噴射ポンプになったようです。「1将功成って万骨枯る」ではないが、ウオルフは消えゆきましたが、ルメイは、こうして、准将に進級し将軍に列したわけです。まあもの凄い実地勉強したわけですね。

話はチョイとずれて、戦前の日本の内燃機関特にガソリンエンジンの後進国ぶりについて言及しておく必要があると思います。その大いなる原因は、古い封建国家日本の御法度の一端、乗り物の規制、竜骨船と4つ車の製造並びに使用の禁止、ということが、明治の新政府時代まで尾を引いていたことによります。幕政時代には、平底船でも、50石以上の船を持つためには、届け出御裁可を仰ぐ必要があり、いかなるバワイでも(たとい宮中の御所車、牛車といえども、)4輪車の製造及び使用はまかり成らぬ、という御法度の厳しさ故の後発性に根ざしていたと思われます。天保年間から盛んになった、全国の治水事業、河川の付け替え、廃川新規用水路化などの土木事業にも、4輪車の牛馬による牽引も御法度で、総て人力による、大八車(2輪)か猫車(1輪もしくは2輪)に限られていたわけです。このため、明治時代に直ぐに開発された乗り物も2輪の人力車が大流行で戦前は村や町内に職業として「俥」(くるま)屋さんとして何軒かはあるほど、全国的に普及して居たために、自家用の乗り物としては、自転車の普及すらかなり遅れてしまったほどです。今日に至るも、各観光地で、人気の乗り物として人力車が一つのブームでもあります。このため、諸外国の、内燃機関付き乗り物オートバイ・自動車の普及が随分遅れてしまい、運送業の全国会社であった日本通運でさえ、かなりの運搬距離まで、馬力牽引車で運んでいた実情でした。戦前の、運搬自動車の主力は、日本独特のオート三輪というのがあって、水冷エンジンの自動車の大工場は、横浜に、フォードのノックダウン輸入組立工場が出来ても、売れ行きはいまいちという状態で、町々に自動車販売店やガレージ修理工場やガソリンスタンドがあるという状態とはほど遠い状態でした。大八車を人が引いても重いような米屋などは大型犬にも一緒に引かせたりしました。

この頃の話として、面白い挿話があります。群馬県の片田舎の出身の飛行機野郎目指した中島知久平氏が、海軍機関学校卒業で、一念発起して33歳で、飛行機工業を興すということで早期退役して、同志7人を集めて日本最初の中島飛行機を起こしたわけですが、自己流でいくつか作っていく内に、大正の半ば、東京大阪郵便飛行機懸賞で、東京ー大阪間3時間18分と3時間は切れず、優秀賞で9500円の賞金をゲット、以降やはりエンジンは、外国モノのライセンス生産に一時頼らざるを得ないと決め、はじめ、水冷エンジンを輸入、飛行機応用搭載研究に熱中しますが、使えば故障する、なかなか旨く整備できない、、、エンジン・メーカーに横文字手紙を送って、彼の地ではエンジン整備をどうしているかと問い合わせたところ、、、答えは「自動車のエンジンと基本的に何ら変わらない。飛行場の整備兵で手に余れば、町のガレージのベテランエンジニヤーに任せれば簡単に治してくれる筈。」と有り、一同、ギャフン!、、だったとされる。当時の日本で、町に自動車が一台でもある町は相当な町で、、、という状態だったのです。そこで、オートバイの空冷エンジンならなじめるだろうからと、中島飛行機は、空冷エンジンを指向することになり、その後、ブリストル社の、ジュピター・エンジン(中島社では寿・発動機となる)などのノックダウンからライセンス製造へとすすんだようです。寿は、単列星形空冷エンジンでしたが、昭和に入ってから更に、スタガー配置複列星形をはじめたP&Wから、モーター/Aをもじって「栄」発動機のライセンス製造を行って、航空機用には、一段過給器組込済の、複列がもっとも適していると判断、栄に自社開発の番手を新たに増やし、零戦などに不可欠の長時間運転可能な、しかもあまり風防ガラスを無茶苦茶には汚さない、1000HP級の空冷発動機の成功につながったようです。その後になって、このP&Wの技術ノウハウに接触したことの知識が起き上がってきて、海軍の使用ガソリンのオクタン価も、陸軍機用のオクタン価88どころか、ずっと下がってきて、いわゆる低質ガソリン時代となりましたが、爆撃機用などに更なる高馬力空冷エンジンの開発がこの低質ガソリン使用条件下で求められたので、誉という高出力エンジンの開発に、全く新しい観点から栄発動機群を見直し、点火時期、排気弁の改良、さらには一次過給器後に濃縮空気が、断熱圧縮効果で高温空気となるのを、メタノールの適量の一瞬噴射で冷却して2次過給器なしでも、かなりの高圧縮効果が出ることを見いだして低質ガソリン用のエンジンとして誉を完成させましたが終戦の間際のことで、、、占領領収テストに来た、米軍のエンジン担当エンジニヤーも歯ぎしりして悔しがるほどの発明だったようで「遅過ぎた優良発明」だったようです。
中島の発動機について・・・

但この、メタノールの一瞬のスプレーで一次過給器圧縮後の空気の冷却器を省略することは、三菱機器製作所の過給器実験班も見つけており、実際、連山改用のハ-211用の1次/2次過給器間の冷却器の代わりにメタノール一瞬噴射機が仕込まれてコンパクト化されて、ハー211ル2段過給器と枝番化され、実機では、双発単座超高空戦闘機「キー83」に搭載される予定だったようです。この記載は、(株)光栄 出版の「日本陸海軍計画機」の62ページに記述があります。ki-83表紙と62ppsc
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