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名古屋空襲、恐るべき全市焦土化爆撃

東京大空襲、広島長崎の原爆、はかろうじて歴史に名をとどめたようですが、昭和20年6月の名古屋の徹底焦土化爆撃は、風化しつつあるようです。B-29が偵察の度にまき散らしていった、地方都市爆撃予告ビラその他、嫌戦感を煽る宣伝ビラをご存じでしょうか?流言伝単002mc
不思議なことに、4月の後半から撒かれ続けたこの地方都市の爆撃予告には、愛知三重岐阜の都市の名前がなかったのでした。
名古屋の空襲の最初は、ご多分に漏れず、昭和17年4月18日の空母搭載、B-25によるドウリットル空襲での2機による、名古屋師団への爆撃で、馬糧舎が全焼したものが最初でした。
米空軍司令のLeMayは、始め、ガソリンの発火点(フラッシュポイント)が、20度以下と云うことも知らず、日本空襲は、インドからシェンノートの援蒋ルートを頼って、インドから雲南・重慶を基地にB-29を送り込んで、西から3500kmの海を渡って渡洋爆撃をすればいいと考えたようです。インドの真夏、昭和19年の6月、印度から、暗澹オリーブ色塗りのB-29を飛ばそうとしましたが、日に照らされ灼けた、黒に近い飛行機の温度は60度に近く、ガソリンはキャブレーターで気温45度の空気で気化すれば即発火して燃え、離陸滑走中にエンジン火災する機が続出、、、。中学高校で、良く物理の勉強しておかないといけませんねえ。ルメイは印度兵のエンジン整備が不良と思いこんで、ウオルフ爆撃隊長に何度も、整備不良を、気候のセイにするなとしかりつけ、最後は上官反抗の罪までなすりつけて、クビにしています。日本帝国陸軍の「大和魂でガソリンの発火点を60度以上に上げろ!」などというたぐいで、いい勝負ですわ。ウオルフ隊長をクビにしてしまったあとで、同僚の整備将校上がりのヒトから、写真のマグネシウムのフラッシュと同じでガソリンは空気中で噴霧状にすれば20度でもフラッシュすると聞かされて恥じ入り、中国経由の日本爆撃をきっぱり諦めます。しかしこの恥かきは異常な執念となって日本の航空機工業の徹底爆撃に及ぶのでした。
名古屋の航空機工業の第一が三菱、陸海軍機機体、機銃機関砲銃架砲架の重工業だけでなく、エンジンの三菱発動機、気化器、過給器、ポンプ、付属機器の三菱機器、第2が愛知時計、海軍機関係機体発動機製造の他、歯車式計器全盛時代でしたから航空機用の各種計器一手引受工場でしたし、第3が、各務ヶ原の川崎航空機、陸軍機主体に、機体と液冷発動機と付属機器まで。このほか、付属機器製造の、豊和重工業他の軍需工場がメジロ押しに並んでいたわけです。標的は三菱001mc
名古屋のB-29による爆撃は、昭和19年12月13日午後の大曽根の三菱発動機第4工場の絨毯爆撃から始まりました。密度濃く爆弾焼夷弾を落とせと云う、特別の命令付きだったとされます。昼間の爆撃でしたが、爆弾が隙間なく落ちて、多くの死者が出ています。(上の上の写真森か林のように見えるのは皆爆弾による煙。)この工場は完膚無きまでに破壊されました。(上の下の写真,いずれも名古屋空襲を記録する会より借用)
このあとも数度の空襲があって年が開けて、昭和20年1月14日未明の三河湾の直下地震で、愛知時計の半田及び知多工場が壊滅します。2月に硫黄島が陥落し、米軍の鋼板滑走路急造方式の基地建設が行われ、、、一方、オランダのカリブ海の島キュラソオの、航空燃料専用の精油所も本格稼働を初めて、3月に入って、サイパン島、テニアン島と更に硫黄島からのB-29が加わって、300機を超す大梯団の夜間爆撃が、加重されました。硫黄島から往復の機は、燃料消費が少ない分、重い爆弾が積めるとて名古屋の航空機工業爆撃用には、500ポンド(225kg)爆弾が多用されるようになり、サイパンテニアン往復機には、焼夷弾が積まれて周辺地域爆撃用にされたようです。ルメイは恥さらした腹いせに、「日本国内で戦争敵愾心煽る標語に「一億火の玉だ!」と有る以上は日本には非戦闘員はいない!無差別爆撃して良いノダ」と言い切っていたと云われます。
5月中旬14日の夜に名古屋の象徴、金のシャチホコ取り外しの足場櫓が組まれたのに気付いたか、その晩焼け落ちています。(写真:名古屋空襲を記録する会より借用)
名古屋城炎上001sc

この頃から、当時日本では、油脂焼夷爆弾と呼んでいた、学校では「黄燐で油に火を付ける仕掛け]、と習ったのとは実際現場に遭遇してみるとなんだか違う仕掛けの、豆腐の腐ったようなのが飛び散って、壁や天井に飛びつくと直ぐ、腐った豆腐が発火して火になる、後年、ナパーム弾と呼ばれることになる、椰子油のゲルに金属ナトリウムを仕掛けたものが、使われ始めました。5月下旬頃から始まった、昼間の艦載攻撃機TBF アヴェンジャーや希に来る、ドーントレス爆撃機による爆弾も、軍需工場や、鉄道車両爆撃にはこの腐った豆腐発火爆弾でしたので、防空頭巾は被るものでなくなってしばしば我が身にまとわりつくこの腐った豆腐を払い落とす、ハタキ代わりにしなければなりませんでした。
名古屋大空襲で忘れられないのは、3月12日の夜の絨毯爆撃と、6月9日の、愛知時計熱田本社及び工場の大型爆弾の集中攻撃です。又、名古屋空襲を記録する会の写真をお借りしますが、
愛知時計の惨状
500ポンド爆弾、数百発が雨のように降ったほか、本社社屋に、1トン爆弾が地下まで貫通して地下室で爆発、数百人の地下室に避難したひと他が、爆死して、今も堀上げられないままのようです(左の写真)。右の写真は、死屍累々のこの夜の爆弾攻撃の惨状です。結局、名古屋市は全市が焦土化した数少ない市の一つになっています。空襲の死者は約9千人、このほかに学徒動員等で、工場他に勤務していた流入人口を含めると、一万人はゆうに超すようです。
6月、7月と、夜のB-29の地方都市の爆撃と、昼間の戦爆連合艦載機による軍需工場と鉄道施設車両、のナパーム攻撃と銃撃、、、で、ほぼ輸送力はなくなってしまいました。僅かに、生き残った老馬馬車による、原材料の運搬の他は、我々勤労動員の学徒は、製品を荒縄で背負わされて、1人1人、組み立て工場まで、ン10kmの焼け跡のかたづいていない道を、腹ぺこで歩いて運ぶことになりました。
東京近郊でも同じだったようで、現在私は西東京市に住んでいますが、田無にあった、中島航空機発動機工場と、その鋳造工場中島金属工場へは、西武池袋線から引き込み線のレールは戦後も長く残っていたようですが、もともとトロリー架線の支柱もなく、引き込み貨車は人力で、特に終戦前は大人の人力はなくなり、小学校5年と6年の男女の子供が、空きっ腹抱えて押していたものだそうです。
愛知、岐阜、三重に戻りますが、豊川海軍工廠はもう2-3月にやられたようなのに更に、豊橋も爆撃されたほか、一宮市、岐阜市、各務ヶ原、が炎上、更に三重では四日市の夜昼の空襲で、ここは丸2日以上燃え続けました。

結局、ルメイ将軍のねらいは功を奏し、軍需工場は、壊滅し、僅かに残った生産力も、結局運搬能力の崩壊で生きず、、、物資の補給がたたれてしまったのでした。その例の一つをあげておきます。

終戦1年も前に、アメリカ本土空襲用に、潜特イー400型5千トン級大型潜水艦空母に3機宛搭載予定の、主翼折り畳み式2座攻撃機晴嵐が完成、資材払底で遅ればせながらも、昭和20年4月には、3隻建艦中の潜特400型潜水艦のウチ2艦が、ほぼ完成の見込みが立ちますが、潜水艦の海中動力源の心臓に当たる、鉛蓄電池の電極は瀬戸内の海軍省御用達の製錬所2箇所で出来上がっていますし、電極を浸す濃硫酸も、下関の先の彦島に充分のストックを持っていましたが、イカにセン、この蓄電池の電極や電解液を保持する、ガラス容器がない。四国の山の中にはガラス用の良い砂は、文字通り山のようにあるのだが、掘り出してガラス工場に運ぶ、運搬手段がなくこの隘路は、決定的!となって、ガラス容器は諦め、海軍は急遽東京工業試験所窯業研究室の全力を挙げて愛知県常滑の全窯を稼働して、耐硫酸陶器の常滑焼で、この蓄電池容器を突貫製造させ、常滑の海岸沖に駆逐艦2隻を送って、常滑地区の防空警護と、この蓄電池ケースの運搬を担当させて、出来上がったケースを米潜の出没する熊野灘や、紀伊水道を避けて、北前船コースの反時計回りに、三陸沖から津軽海峡を廻って、日本海経由、彦島に送り、硫酸を受け取り、更に廣島、岡山の昭和鉱業の製錬所で電極の装填を完成させて、近くで建艦完成を待っていた2隻の潜特400型に、引き渡している。コトほど左様に、ものはあるところにはあっても運搬の手段に既に困窮していたのです。8月に入って、この潜特400型の1艦が海軍に引き渡され、南洋海軍基地攻撃に終結しつつある、敵艦隊に一矢を報いんと、房総沖を南下中、昭和20年8月15日終戦、房総沖約2百海里の地点で浮上「われ交戦の意志なし」の信号旗(白旗)を掲げてレーダー発見した米駆逐艦などに収容されたと云うことです。
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テーマ : 名古屋・愛知 - ジャンル : 地域情報

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