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「大横綱双葉山と巨大なその足跡」特別追悼3月増刊号「相撲」

モンゴルからの舶来横綱「白鵬」も慕い憬れてやまない大横綱双葉山は、戦後食べ物のないウチは新興宗教の旗担ぎ・提灯持ちで、飢えを凌いで後ろ指を指されたこともありますが、、、その後立ち直り、戦後の食糧難で力士が栄養失調で、青息吐息の相撲協会の復興の大変な時期に、その大名声故に理事長に祭り上げられ、、、木鷄どころか「ミチバシリ」(英名ロードランナー:鳥の名)そこのけに巨体を揺すって、各界に顔をつないで走り廻り、賛同と喜捨を得て相撲興行の再興を計らざるを得なかった大役を果たし、、、その後も名理事長を務め、昭和43年12月16日不帰の客となったのでした。100ヶ日も過ぎた翌昭和44年3月、相撲協会機関誌を名乗るベースボールマガジン社刊「相撲」誌3月増刊号は、標記のように、マルッと一冊を挙げて、この大横綱の生涯の清廉にして豪快な足跡を紹介しています。
44_3相撲 目次mc001
明治45年2月大分県宇佐郡天津村、船舶運送業、穐吉義廣夫妻の次男定次として誕生、小学校に行くのが待ち遠しい勉強好きの子だった由で、勉強も優秀、小学一年の通信簿で全3学期を通じて3学期にアヒル(乙)が一匹泳ぐだけのほぼ全甲という模範成績が写真付きで紹介されています。大正時代を小学校尋常科、高等科で過ごし、新改元6日で迎えた、翌昭和2年の2月に訪れた、立浪(もと小結緑岩)親方に紹介者でしこ名のモトとなった、、、大分県警察部長・双川喜一氏のつてで、入門してついて我が家をあとにしたようです。
44_3相撲 ふたがわ氏の紹介入門mc003
翌3月巡業場所大阪場所で初土俵。俊敏ではあったが、腕力、体格体力とも凡庸のウチで、昇進は決して早くはなく、入幕後も何度かエレベーターして三役も小結や前頭筆頭も何度かエレベータしているようです。
44_3相撲 昇進年表002mc
昭和11年の春場所(当時は未だ年2場所の本場所それも11日興行時代)初日に新海を土俵際に追い詰めながら、勝ちを焦って伸び上がって寄ったために新海にうっちゃられて、黒星スタート、しかし、このうっちゃられは軽量だった双葉に腰を落とす慎重さを教えていた。2日目の相手がベテラン、あばら骨が13枚あったという伝説を残す胴長の横綱、武蔵山、がっぷり四つに組止められたが双葉は腰を慎重に落として、機を窺い、寄って出て武蔵山が、こらえて、上手投げに来るのを、回しをぐっと引きつけて、相手の体重の傾きを利用して下手投げに打ち返してそれまでの対戦成績4敗1分けの相手を初めて破って大きな自信にしている。3日目は、名うての相撲巧者大関清水川、さんざン暴れ回ったが組止められ寄られて土俵につまったが、軽量でも腰を落とせば何とかなるという自信が幸いして、最後の粘り腰で、この大関をうっちゃりに仕留め、自信を更に深めて、4日目、西関脇の太鼓腹鏡岩の怒濤の寄りも、その出足の勢いの有効利用のようなうっちゃりにしとめている。5日目は容貌魁偉、上背6尺2寸の、大男横綱張って5年目の男女ノ川を、猛烈な突っ張り合いのなかから飛び込んで、まわしを引いて寄り詰めたが、さすが大横綱、差し手を極めて寄り返し、上手も捉えてかんぬきに極めに来るハナを素早く右手を抜いて上手を取り、右から上手投げを打って双葉の勝ち、6度目の対戦で初めてこの巨人を倒している。この勢いと自信で、当代随一の怪力横綱玉錦にも一泡を、、、という6日目、立ち会いから猛然と突っ張っていって、潜り込めたと思った瞬間、玉錦の腰が後ろに跳び、回しに手が届かず、両肩をはたかれて、双葉は土俵に落ちて、やっぱり大横綱に5度目の黒星。,,,しかし、はたかれても落ちない工夫のモトにはなり、総て敗戦の反省を稽古の肥やしにしての、翌日の瓊(タマと読む)の浦からの、69個の白星街道が始まったのです。未だ大関になる頃までは、カラダも筋肉が付かず、膂力も強い方ではなく、総ては敗戦経験による工夫と稽古に頼るしかなかったようです。然も双葉山には、人には言えない決して相手に気づかれてはならない、重要な身体上のハンデキャップを背負っていたのでした。従って、力士中最も寡黙の人だったそうです。
安藝ノ海がこの号の紙面で初めて告白していますが、、、双葉山の左目が見えないことは、打倒双葉に燃えていた頃の誰も、参謀長の大学相撲出の笠置山さえ知らなかって、、、何年か後に双葉山が一寸衰えを見せ始めた頃になって、漸く噂に上り始めたのだと。更に、この頃は、本場所は11日間場所で年2場所。あとは巡業、大阪、西宮場所、九州場所、後に13日場所制と共に名古屋場所11日が加わったりしますが。全勝が始まった翌昭和12年の夏場所後の7月に日中戦争が始まって、戦線拡大で、ドンドン派兵が増える、、、戦線の兵士の慰問に巡業に行ってくれというコトになって、66連勝した昭和13年の5月夏場所後に、関釜連絡船で海を渡り、朝鮮(現・韓国)京城(現・ソウル)場所から、満州(現・中国東北部)大連(現・旅大)場所、新京(現・長春)場所の他皇軍兵士慰問巡業で戦地も廻り大変な旅回りだったようです。44_3相撲 男女ノ川らと満州巡業mc006
(後ろの飛行機はノモンハンでも活躍した陸軍95式戦闘機キー10、特徴的な液冷エンジンの空気取り入れ口に満州用にルーバーダンパーが付いている!)
満州では先に現地に住み込んでいて相撲指導に当たっていた、春秋園事件で相撲界を去った、元関脇天龍氏とも旧交を温めたようです。
44_3相撲 羽黒と双葉 天龍を訪問mc009
こうした炎天下の衛生状態が良くない地域を廻っていたために、飲料水・料理等の衛生状態が保たれていず、多くの力士が、水あたり(日本国住民は軟水にしか馴れていないのが急に硬水での生活になり腹を下すコト)したほか、双葉を含む3力士が、当時は不治の病であった、寄生虫病の一種「アミーバ赤痢」にかかって帰国した。双葉山はその年の暮れまでに2回入院、暮れに退院し、年明けの昭和14年1月運命の春場所、は稽古不足も佳いところの然も病み上がり、4日目にホントに稽古も含めて初顔の安藝ノ海の外掛けに無念の不覚を取ったのでした。
安藝ノ海のこの号の誌面の告白によると、この満州での大連場所の稽古土俵で、双葉関から「安芸、上がってこい!」と声がかかったが、自分は2日前から腹痛下痢している旨を断って、勘弁して貰い宿に帰ったトタン猛烈な腹痛に、、、盲腸と判り、早速入院手術したのだそうで、、、偶然にも、稽古でも手の内を知られずに、初顔という幸運に恵まれたと書いています。
確かに「今更なにを!」といわれればそれまでですが、、、戦時中の双葉山の写真を通じて、その頃の国民生活の一端を偲んで貰うために、若干の双葉山関連の戦時下の写真を添えましょう。
愛国の飛行機の献納式、国民から陸海軍に飛行機が献納されましたが、力士会と相撲協会が共同で、「相撲号]を陸軍に献納したときの写真。
44_3相撲愛国飛行機 相撲号の献納式mc010
(後ろの飛行機は、陸軍97式戦闘機、特徴的なカウルのなかに潤滑油の冷却コイルが見える)
昭和14年5月に徳富蘇峰という国粋論者の元ジャーナリストが昭和天皇を唆して「青少年・学徒の動員に関する詔勅」を、不遜にも自ら起草して天皇に渙発させ、「諸君は若い!その若さを有用にもちうべし」と天下に檄して、、、、中学生女学生はじめ青年学校、高等学校専門学校大学生も、飛行場もっこ担ぎ、河川改修、農業応援作業、軍需工場動員、トロッコ貨車押し、、、に駆り立てられる元を作ったわけですが、相撲の力士は、主として九州の炭坑の坑夫の仕事に動員されたようです。食事が一人前しか配給がなく皆やせ細って力が出せず大弱りだったようです。力士は喰ってなんぼ!なのに、、、未だ炭坑に行くまえの双葉と名寄岩の写真から。
44_3相撲 名寄岩と炭坑へ勤労動員mc008
昭和15年4月からは全国の高等女学校にも配属将校が配属になり、それまでの女子武道「薙刀・弓道・小太刀」の他に軍事教練も課されることになりましたが、当然相撲力士にも、軍事教練が課されるようになりました。写真は、錦糸町公園での教練姿の双葉山と幡瀬川。44_3相撲 幡瀬川と軍事教練姿mc007
瓊の浦の勝って、連勝が始まって、前頭から小結飛ばして、関脇で全勝して優勝して鏡岩と同時に直ぐに大関に昇進、この半年の間の猛稽古で、筋肉がつき始めて初めて背丈も1寸(約3cm)ほど伸び、体重も6-7キロも増えたようです。
名寄岩の話ではウチの大将は酒は好きでなく,御ひいき筋が余程しつこく誘わない限り、祝宴以外酒席には遠慮していたのだそうです。名寄岩も後年双葉山が左目が見えないとヒトから聞いて、なるほど、それでウチの大将は酒席を警戒し、又平生でも無駄口は決して叩かず寡黙を通してひた隠しにしていたのだな!とやっと合点がいったと書いています。時には酒を過ごすようにすれば双葉山はもっと早く体重が増えて強くなったのかも知れません。どちらが彼にとっての人生だったかは神のみぞ知ると云うことでしょうか?この号の誌面では、双葉を叩き込んでからはもう双葉にやられっぱなしになってしまった横綱玉錦が、双葉の横綱推挙が決まったトタンに、自ら酒樽下げて、立浪部屋にお祝いに出かけるという、チョイと当時の上下関係では考えられない、、、つまりは心からなる喜びの表現、、というエピソードを写真入りで紹介していますので、引用しておきます。
44_3相撲 玉錦を又も破って横綱昇進004
快男児玉錦も、やまいには勝てず、九州巡業中の盲腸を、こじらせて、大阪えの船旅中も酒を飲んだりして過ごしたのが悪く天保山に入港と同時に急変、、、入院したが腹膜炎を起こしていて、手術も間に合わず、手術中に急逝。その後武蔵山も病気欠場状態に入ってしまい、、、横綱は、男女ノ川、と双葉山の時代になっています。この時代巡業では、横綱の手数入りの他に、横綱同士による三段構えという、イベントが行われており、現代の人たちには珍しいかと、、、写真をご披露しておきましょう。
44_3相撲 男女ノ川との3段がまえmc005
ところで、双葉山は昭和15年で、アミーバ赤痢で、体力が付かなくなって、一旦引退を申し出て新聞が先に報道する騒動となり、結局、ひいきと親族が説得引き留めに成功しますが、アミーバー赤痢の特効薬がなく、2年近くが過ぎ、ドイツから朗報と共に、特効薬スイスCIBA社の「キノホルム錠剤」(現在はスモン病の元凶として製造及び販売とも禁止)が送られてきて、短期間で完治、又昭和18年の連続優勝による36連勝という復活が成し遂げられています。以上一寸長くはなりましたが、この巨大足跡は、、、かいつまんでもこんなモノになりますね。ご寛恕のほどを。
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