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スポーツマンとしての資質、たとえば「木鶏たり得ず」の双葉山

2年ぶり、大阪で春場所が始まりました。大関把瑠都が今場所は、綱取りと騒がれていますが、先場所限りの定年退職で、日本相撲協会の大変な時期だけその大変な理事長を勤めて、協会を去った放駒前理事長が把瑠都関に置きみやげしていった言葉に、、、「横審がどういうか知らないが、稀勢の里戦の逃げ様(ざま)は、大関として見苦しすぎた、優勝を飾る大関ならあんなのはあり得ないと思え」、、、確かに重い言葉だと思う。
大相撲12日目2012jan
直ぐその日スポーツ記者の問いには「飛んだかなあ、それほどひどく変わってないと思うよ」などと答えたそうだから計画的ではなく、つい、無意識的にしたモノらしい。怖さのあまりにカモ?それはそれで問題だろうが、写真で見ると、仕切り線に対して直角近く変わっているのだから、稀勢の里のシパシパ瞬きが怖かったのかも?、、。
把瑠と稀勢の里戦
前理事長は、昭和54年頃まで、花籠部屋の大関として気合いの入ったガチンコ相撲で鳴らした正統派「魁傑」、小兵や平幕の勝ちっ放しならともかく、未だ12日目の大関同士で、自分が先輩大関で、、、如何に初優勝が欲しいとはいえ、立ち会いから逃げ飛ぶなんぞは、大型力士の風上には置けない!というわけ。立ち会いには当たって、2度目のかち上げを飛ぶなりはたくなりは流れで許されるのだが、、いきなり立ち会いで飛ぶのは舞の海辺りの小兵のすること、、、とても大型力士に許されることではないというわけ。放駒前理事長
一つには、大関にもなってもう数場所以上になるのに未だ立ち会いが甘く、自分の相撲の型をがっちり決めて居ない証拠でもあるというわけでもありましょう。放駒親方現役時代は、魁傑のしこ名の示すとおり当時としては幕内有数の大型力士であったからこそ出る苦言なのでありましょう。
一般に武技や格闘技では、敵に相対したときに気後れする、気の迷いが生じ逃げを打ったりごまかそうとするようでは、既に気合いで負けているわけですから、上達ののぞみはありませんわね、そこからが修行ですね、自分の型を造り出すという行為、気持ちを整理して気合いを込めていける自分なりの型を見つけ、稽古訓練により身につけていくという、、、関脇2度目に上がったときの白鵬は、、、他の部屋の親方たちがみんな目を見張ったんですね、立ち会い、素早く左の前褌を取りに行く、一つの型を始めたのでした。現在でもかなりの頻度でこの型を出しますが、未だからだがいまほど出来ていなくて、モンゴルから来て未だ日本語もろくに覚え切れていない頃もう関脇に上がって、一度は陥落、しかし二度目に関脇に上がったときにこの旨い前褌取りを始めたので、、、相手力士より先に各部屋の親方衆が、感心してしまった。ウチの部屋のモンには何度聞かせても出来ないのに、あいつは!なんと!というわけでした。白鵬の所属を決められた部屋は宮城野部屋という小部屋。どうしても稽古には他の部屋に出稽古に出なければならないのを彼は、逆に活用したようですね。どこかの部屋の出稽古の時にその部屋の親方が、自分の所の弟子に型を作れと、、、教えていたのを聞いて、なるほど相撲ってのはそうかと納得、早速密かに自分なりの型を編み出して、身につけていったようですね。現在の白鵬は、左四つ得意の相手には右で取りに行く、素早い両刀遣いになっていますから、倍強くなっている感じですが。
初場所12日目の稀勢の里戦の把瑠都の仕切りの相対の上掲の写真を見ると、あの大きい体には見えず、、、稀勢の里に「位負け」してしまっていますね。
子供たちのアニメ忍者のタマゴ、忍たま乱太郎のテーマソングにもあるように、、、♪そうさ、100%勇気、もう、やるっきゃないさ、」に負けてしまっているのでしょうね。稀勢の里より小さく見えてしまっています。コレでは100%のっけにトブッキャなかったのかも。
横綱白鵬が目標とする先達は大横綱双葉山、戦前から戦後直ぐまでの、ガチンコトリオ、立浪3羽ガラス、
s13-5立浪3羽カラス
逃げも隠れもせずがちで69連勝したが、当時の幕内唯一人の大学卒学士手取り力士の笠置山の入れ知恵で、足癖のある上り坂の安藝ノ海の理詰めの外掛けに、70連勝は阻まれたが、その原因はと言えば、大関時代から、立ち会いは受けて立つようになり、一つの型を持っていて、受けて立って組止めるや、逆足に足を半歩退いて体重をこの足に移す、、、この一瞬を、安藝ノ海にフェイントの反対足に掛けるとも見せかけての、この軸足への強烈足首外掛けに、もろくも崩れ落ちたわけでした。ラジオの実況のアナウンサーでさえ、安藝ノ海の右外掛け!、、、と絶叫していたのに翌朝の新聞写真は見事な左外掛け!このくらいの奇襲作戦でないと、この横綱は大力横綱玉錦でさえ、もう倒せなくなっていたのです。
安藝ノ海の組写真mc

相撲の心得の定は、「心/技/体を磨く」,,,双葉山は大関時代の連勝中に、当時の政財界の黒幕といわれた陽明学者の安岡正篤氏に酒席で、東洋哲学的な、老子の弟子の荘子や列子の書に出てくる、闘鶏用に鶏を鍛える話で、鍛えられた鶏は最高に仕上がると「木鷄に似たり」状態で、どんな強い相手がきても驚かず騒がず威張らず、ごく自然でいて、然も相手がおそれて逃げ出す、、、ほどになるという、、、この話を聞かされて、、、特別な興味を示し、自分の稽古場に掲額するからと、安岡氏に懇請して、木鷄と揮毫して貰ったようです。安藝ノ海に不覚を取って、連勝が止まった晩、安岡氏のモトには、「ワレイマダ モクケイタリエズ 」という電報が届いたとされています。
平成の現時点でも、この故事に倣って、170を超える企業に、木鷄会なる、心技体を鍛える会が存在している由ですが、、、そのシンボルたる、木鷄が、普通の鶏の雄鶏や、チャボの木彫りだったりして、木鶏カモだがチャボでは闘鶏用にはなり獲ない!チャボ

全く判っちゃいないのは滑稽です。闘鶏に訓練するのは足の短い愛玩用のチャボでなく、「軍鶏」と書くシャモナベの旨い軍鶏(シャモ)なのです。闘鶏用軍鶏
因みに、、、この木鶏の話を双葉山にしたという安岡正篤と言う人、我々にはとてもなじみの薄いヒトですが、、、少なくも二つの我々が知ることに関わったヒトです。
先ず一つ、昭和20(1945)年8月15日に重大放送として「玉音放送」された「終戦の大詔」の原稿を最後に加筆したヒトとされています。
次の一つ、昭和58年、当時赤坂のデイスコ・ホールの経営者で、銀座のバーのオーナー・マダムでもあった、後のTVに良く出るようになった、占いを心照学という先生、細木数子との結婚騒動事件があって、数十日後になくなったヒトです。確かに結婚の約束はして、細木さんは結婚届を一旦提出、騒動になって、、、なくなり、、、事実婚はない、の裁判所の裁定で、この届けは引っ込められたそうですが。やっぱり「木鷄たり得ず」でしょうかね。
細木数子は2008年まで、出ずっぱりのTVで若い夫婦などの人生相談していたりしましたが、、、よく言った台詞に、「ご先祖を大事にお祀りしてますか?」「男は、女子供をチャンと食べさせて育てて、、それで普通なのよ」「女は亭主にまあおいしいモノを手料理出来てやっと一人前なのよ」、、、高知の産で大野伴睦らに東洋思想をといたという、父親譲りの東洋思想が厳然と生きていました。
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テーマ : 歴史大好き! - ジャンル : 学問・文化・芸術

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