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「抜け出た馬が萩を喰う」貞観の頃

東日本大震災で、一躍脚光を浴びたようにして1100年ほども前の、貞観時代の巨大地震と大津波が漸く顧みられましたが、実は、明治時代に既に古文書による古地理学者によって、貞観の巨大地震と大津波が、三陸沖から福島の沖の、日本海溝に断層起因の大地震と推定しているそうです。そして、面白いことに、、、この学者は、小倉百人一首の「末の松山なみこさじとは」は、多賀城の東に、これもそれ以前におそらく何度かの巨大地震が持ち込んだような、末の松山という、砂山のような低い丘も貞観の津波はどうやら越えていないようだ、と唄い込んでいると、判定しているのだそうです。
今回の東北大地震の大津波は、宮城選出某議員さんのtwitterの呟きでは、「末の松山は無事でしたが波は越えてしまいました」そうです。となると、貞観11年の大津波でも多賀城下で1000人尾溺死者が出たというのですかrら、末の松山が無事でも、清少納言のお父さん、清原元輔が、聞き及ばなかっただけで、波は越えた可能性はナシとしませんね。
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heade mcr
その貞観11年の頃、宮廷は未だ平城京から宮廷が京都に移ってきて、いろいろ格好をつける途上にあり、京都へは何故遷都されたかというと、当時までに飛鳥の時代以降はやりに流行った「風水の見立て]によって行われたのであり、従って当時のヒトは知るよしもないが、京都の現代的地質学的な解明では、京都盆地の半分以上の地下には岩盤の下に巨大な地下湖水があり、これが割れ目から漏れ上がり、地面は常に湿っぽく、冬は底冷えがする、当時は、沢ガニより小さな、蜘蛛と見まがうような小蟹が一杯そこいら中に棲んでいて、宮廷の床下から床上まで、横に這い回り、掃除部隊のかしらの呼び名も、「kanimori」のかみが訛って、掃き部のかしらと書いて、「かもんのかみ」と呼んでいたとされるわけです。この蟹自身は悪さもいたずら程度なんですが、、、その湿気にたかる、蚊や蝿やブヨやばい菌寄生虫、で、清少納言やお姫様といえども、非癬・疥癬などの皮膚病や、疫病に冒されるのは、ごく普通で、鉛白やヒ素系のおしろいで、皮膚病の治療をかねて、おしろいで真っ白に塗りたくっていたわけで、短命であったのは当然でしょう。
然も姫や女御、女官の居場所は寝殿造りの奧御殿のこんな容易に日も射さない窮屈な箱住まい。
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貞観時代の主な地変をウィキペデイアから拾うと、
貞観10年(868年)7月8日、播磨国で地震。日本三代実録によれば官舎、諸寺堂塔ことごとく頽倒の記述。前年から引き続き、毎月のように地震があったことも見受けられる。
貞観11年(869年)、格12巻が完成。貞観地震とそれに伴う貞観津波が発生。貞観の韓寇。
貞観12年(870年)、貞観永宝が鋳造される。
貞観13年(871年)、式20巻が完成。貞観格式の完成。鳥海山噴火。
貞観16年(874年)、開聞岳噴火。
清和天皇は、朝鮮からの強硬外交や渤海史の来寇と言う外患に加えて毎月のように揺れ時に官舎や社寺が倒れることを気に病み、体調を崩し、陽成天皇に皇位継承して法皇になったがまもなく崩御だったようです。他の古文書に、陸奥は地震の後疫病が流行ったようで、大津波の後の庶民生活の惨状が窺われます。
尚、別の資料(吉川弘文館刊標準日本史年表)によるとこのほか富士山が、貞観5年に奥州の火山の總噴火とともに噴火して、同6年に収まったようです。十和田のカルデラ爆発はもう少し後です。
この頃政治は、内憂外患で揺れ動き、その隙に渡来人家の藤原家が勢力を強め政治介入、藤原良房が天安2年(858年)に摂政に成り上がり、政務を司るようになり、一統である藤原基経が、宮廷内の実務を助けるようになっています。(後に関白となるが)この頃、幼時から天才的画法で、いわゆる唐絵を抜け出て大和絵という日本画の基盤となる画法で有名となった渡来人の息子、巨勢金岡に、此の藤原基経がぞっこん肩入れして、宮廷画家として育てます。貞観10年の播磨や河内の地震で、宮廷内も庭園も荒れ果てたので、その後直ぐ、この巨勢金岡を登用して、宮廷内に神泉苑という大和画的な庭園を造るように命じています。この藤原基経が、京都朱雀門に出没した赤鬼を殿中に招いて双六をしたという図を書いた絵師の画が伝えられているようです。280px-Haseo-zoshi-1.jpg
この絵で見る限り、この時代の赤鬼は、漂流して流れ着いた白人洋鬼が日に灼けた顔に見えますね。
東洋の、絵描きには、歴史的に各古代にも、馬を描く名人が中国にも朝鮮にもいて、魂が籠もると馬が絵から抜け出て、走ったり跳ねたりするという伝説があるようですが、、、この巨勢金岡が宮廷の障子に描いた馬が、夜な夜な抜け出て、庭の萩を喰ったという話が伝わっています。
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萩は、その花や葉っぱから想像されるように、豆科はぎ属の植物で、馬はこの豆科の植物が大好物、抜け出る力があれば好んで庭の萩を喰っても不思議はないんですね。
狩野尚信の二条城黒書院二の間のふすま絵の桜下雉子の図photo_ninomaru_04.jpg
の雉子が人気のない時にケーンと鳴いてはバタバタ羽音をさせて飛び上がる、と言う話や、古今亭志ん生の十八番の演目「抜け雀」の小田原大久保加賀守が2千両で買い上げようとした「雀のお宿」の五羽の雀など、狩野派の日本画の画に先立つこと七-八百年も前の巨勢派の大和絵の、お話です。
インターネットで、巨勢金岡の馬の図を検索してみると、大阪毎日新聞が明治26年から当時開発された多色石版
印刷技術を使って平版印刷法が現れる大正7年までの、毎年元日に新聞付録画1幅づつを、配っていますが、その第一号二号は、この巨勢金岡の絵で、2年目の付録画に巨勢金岡の「左り馬」として配られたようです。
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この絵の馬の後足が解剖学的に見ていささか不自然なのが気になりますが、大正から昭和に懸けての日本画の巨匠川合玉堂の、馬の絵に比べれば、まあまあでしょうか?
私が1986年から6年半住み込み勤務した、ノルマンデイーには、イギリスからの委託飼養も含めて多数の競走馬、サラブレッドが飼養されていますが、やはり萩は好きですね、白夜の頃の朝早く明け行く薄明かりの頃に、何処の厩舎を抜け出したのか(我が家には馬の絵はなく抜け出すはずはない!)門の低い牧場風の横長の扉を飛び越えて、一頭の2-3歳の若駒がトロットで、闖入してきました。庭に白萩が2本狭い石垣と塀の間に2箇所に生えていたからです。その隘路の方から、高くヒヒーンといなないた後、ブルぶるっと鼻を鳴らすのがしきりに聞こえるので一番近い窓を開けて見やると、案の定、挟まっていて、萩の木を押せば、通れるのに、無理矢理向きを変えようとして、石垣に挟まって、進退谷まっていたのでした。眼がもう二度としないから助けて!と言っているように見えましたから、急いで、パジャマのママ庭に出て、石垣の上からそっと、首を抱いて、元の向きにしてやり、降りていって、萩の木をぐっと塀に近づけて、、、日本語で「ハイ、どうゾ!」と言ったら、すっと抜けて庭の中央に立ち止まり、私を待っているようでしたから行って首の横を軽く叩いて、「萩はおいしいのかも知れないけど、場所が良くないよ、気を、、」まで言ったとき、判ったよと言わんばかりに振り向いて私の顔をヒトなめペロリ、後足で、2度立ち上がって、ひひーんの後、ブルブルブルうゥ、と鼻を鳴らして、猛烈に馬臭いヒトなめ残して門に向かうと、軽く飛び越えても一度私を振り返ってからトロットして、坂を上がっていってしまいました。このときの若馬の印象忘れがたく、丁度翌1991年が庚午の年で、年賀状にこの若駒の絵を描きましたが、150通ほど発送しましたので、ご覧いただいた方もおありかと。うっかり萩の絵を書き添えるのは忘れましたが。
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白萩です。
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テーマ : 歴史大好き! - ジャンル : 学問・文化・芸術

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