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桃山時代の豊臣秀吉のフロイスによる評価

私の郷里「尾張野」の女学校の校歌の歌い出しは、、、♪英雄嘗て野に出でて、歴史を飾る尾張野や、、、」でした。織田信長も豊臣秀吉も、この地の出身、正体不明の、蜂須賀小六正勝などの、生地というかもと縄張りも直ぐそこに字蜂須賀として存在していました。彼の行動範囲は、尾張下4郡と言いますから、丹羽郡、葉栗郡、中島郡、それに海東郡(昭和6年以降海部郡と改称)とズバ抜けてひろく、水並衆という木曽川下流の3角洲時代の木曾7川のド方、小農と共に暮らす、野武士達3千人の首領だったようです。木下藤吉郎が、未だ草履取りから侍小隊長の頃、尾張野どこかで、出会って、互いに息と呼吸を計りあっていたとして不思議はありません。
もともと蜂須賀の所領は、誰のモノとも不明で、信長の親父が、ならば頂戴して勝幡城の領地とすると、蜂須賀親子を追い出したようです。ですから、蜂須賀小六正勝は織田の軍門には下らず、野武士や水並み衆の棟梁として、正体不明の出没を続けていた、、、一方の草履取りから織田信長が、鉄砲隊組織する頃、便所の土いじりで、火薬を作る仕事は、誰も好まぬと見て取った藤吉郎は、「火縄奉行」と名付けていただけば、喩え糞ションベンと言えども扱って見せましょうと、、、信長に買って出たことは想像に堅くない。あちこちの農家に下請けさせて、火薬のモト硝田を作らせ、火縄用の麻縄も綯わせて、火薬と火縄を、糞尿から作らせて、織田信長、得意の鉄砲隊の火薬の自弁生産に寄与したからこそ、信長の抜擢があったのも当然と言えるかも。その火縄の調達にあちこち駆け回っているウチに、小六正勝の本心を見抜いていたのであろう、いつかは出世するチャンとした大将の配下に家来ごと馳せ参じないと、大変なことになる、、、と言う焦りも。
此処で、信長の美濃攻めが始まる。先輩諸大将が、尾張をたって加納城や、稲葉城を攻めるが、城に迫る頃には直ぐ日が暮れて、戦いにならない。気短な、信長は焦りまくる。長良川の川向こうに出城を築ければ、と言う結論に達し、墨俣辺りに城を造れないか、と藤吉郎に難問を投げかけた。ナンとか考えてみましょうと、藤吉郎は、小六正勝に相談しに走った。水並み衆なら、川の扱いは、お手の物、と言うのぞみに賭けた。小六は織田は、仇筋という蟠りがあり、おいそれとはいい返事は出来かねた。考えてみると、木曾からでなくながらの上流にも木材のモトはあり、筏が組めなくても、一本流しでも、下流で集めるという手はある。流れを見計らって、稲葉城の下を夜流せば、大量の木材を数晩で流せるかも、、、と思いついたようだ。気の利いた、連中に図った挙げ句、藤吉郎の申し出を、受けた。こうして墨俣の一夜城は僅か数日後には数日で、作れる体制を固めた。そして、木材流しに1000人、墨俣の水城築城に1000人兵糧組1000人が、それぞれ役割分担決めて一斉に行動して、数日の協力行動で、一夜城と言われる拠点を長良の向こう岸に実現して、一夜城の桜mc
藤吉郎軍が加納の城に攻めかかるのを囮に、信長主力の騎馬軍団が、稲葉城に駆け上がり、鉄砲攻めで、僅か数日で、加納の龍興も、稲葉城の斎藤道三も鷺山までは逃げたが、それぞれ討ち果たしてしまった。藤吉郎が、稲葉城に最初の一個の瓢箪の旗印を上げたのがこの既に落城した稲葉山にであったという。後に功を成すごとに瓢箪は増えていくことになる「千成瓢箪」。
新大阪駅の千成瓢箪

この一夜城が契機となって、藤吉郎の小細工を、蜂須賀小六がその老練な手腕と顔の広さで、カバーして、織田信長の野望の片棒を担ぐ功を成す。この辺りは、木下藤吉郎もまじめな青年団長のようですが、、、前述のフロイスが、実際に同じ桃山時代を生きて見て、,,羽柴秀吉から太閤豊臣秀吉になった後は丸で暴君!と酷評を連ねているようです。同時代の日本人が残した織田信長の酷評と、フロイスの織田評が、太閤秀吉評では、丁度、入れ違いになったかたちのようです。
勿論現代の墨俣のこの一夜城は地元の宣伝用の大誇張でこんな天守閣まで着いた城を造れたはずはないのですが、、、兵員数千と馬数百頭は夜陰に乗じて渡河できて休息でき朝飯と梅干し弁当は、用意できる程度の陣営がほぼ一夜にして出来た可能性はありますね。

このときの、織田信長の喜び様は一通りではなかったようで、藤吉郎の奇策も褒めたであろうし、何よりも、蜂須賀小六の老練なる経験と顔の広さと、川並衆を味方に付けるべく藤吉郎よりも小六正勝の労苦をねぎらったと思われる。この後から羽柴秀吉を名乗りだしてからの秀吉は、藤吉郎の青年団員風実直さをどんどん失っていったように見える。丹羽と柴田の両先輩から、一字宛漢字を頂戴して苗字にし、一方の旗頭に収まったトタンに、何か大事なモノを見失ったのではなかろうか。

日本の史家の間でも問題視されるのは、賤ヶ岳の7本槍、先輩格の武将まで含めて、部下同様に扱ったのは自分が指揮した合戦のモトなので、仕方がないとしても、どうやらこの手柄は合戦が片付いて銘々の追撃戦下での戦果であったらしい、にもかかわらず、賤ヶ岳合戦の戦果として、賞した。「泥水をすすり草を噛み戦った」その又部下が皆目の前で見ていたわけで、、、後々までも、福島正則も、加藤清正も、「賤ヶ岳の7本槍」については、口を閉ざし、特に部下の前で、触れられるのを極端に嫌ったという。この二人が後に、秀吉とあっさり袂を分かって、徳川方の重臣として出世したのも、、、何かあるようです。

成り上がり者のならいとして、金ぴかで飾りたがり、その実安普請の政庁兼居宅の聚楽第に金箔瓦を用い、風呂は純金つくりにして時の天皇を2度も行幸させて見栄を張り、jurakudaisouzouzu.jpg
Jurakudai_Byobuzumc.jpg
その頃から京都、大阪伏見丹後若狭は頻繁な地震が始まって、庶民は落ち着かなくなって、秀吉のわがままに罰が当たっていると噂しながらも、言い出せない、気詰まりに陥っていたようである。部下に7本槍などの虚構を構えてまで論功行賞に大盤振る舞いするために、日本60余州では土地が足らなくなり、、、、海の向こうにあるから、取っておいでとばかり、唐攻めと称して、韓半島への侵略を開始し、子飼いの部下にはさせきらず、総大将は、小西行長、いいハタ迷惑。冬のソナタの凍えには仕方なく、とんがらし粉を山ほども持ち込んだ。現在韓流料理が、真っ赤っかなのは、秀吉の説得の真っ赤な嘘と同じ「セッパルカンコウジンマル」で小西軍が寒さ除けに持ち込んだもの。

ルイスフロイスが、秀吉が人間でないほどの、暴君であると指摘するのは、特に淀君の産み落とした第一男子が、ひ弱で、夭折したトタンから「誰が若を殺した?」と猜疑心の塊となり、、、だそうで、唐攻め最中の名護屋で、淀君の第二男子の誕生で、部下の入れ知恵という説もあるが、、、太閤を譲り渡した甥の秀次、を京都帰京後、高野山の寺領内で鹿狩りをしたことで、折檻し、高野山に詫びに行かせたうえで、更に自裁切腹を命じている。
これまでならまだしも、秀次方の報復をおそれて、主立った部下の殉死を強要している。更に部下に命じて自分の姉の一族30数名(幼児幼女を含む)を京都2条河原で、首をはねて放り出させている。、、、京都の心ある市民は俄坊さんになって、この斬殺体を処理し、畜生塚と名付けて、手厚く葬り供養している。おわかりでしょうが、、、首をはねられた人々が畜生か、首をはねさせた方が「畜生」なのかは、言わずもがなですね。
罰が当たったか、隠居城として築城した、伏見の指月山城は、2度と4面の月見もせぬうちに1596年慶長伏見地震で崩れて、台所棟だけが倒壊を免れた。秀吉も此処でふるえていたそうである。翌朝、近くの木幡山に仮小屋を建てて移り、伏見城の再建はこの地で行われた。此処までが桃山時代と後に呼ばれ、本来の建築は重厚な構えであるが、つくりが派手で、金ぴかも随所に使われるのが、桃山作りとされる。現存する桃山つくりとしては伊勢の慶光院などがそれに当たる。伊勢慶光院裏+表mc
太閤秀吉になってからの、木下藤吉郎時代のようなまじめな仕事もあるにはあるのです。各地諸大名の知行地の比較のために、当時としては新しい面積の測定法(現在も地積算定に用いられるのと同じ)3角縄張り法による太閤検地。更にその三角面積単位ごとに地味が肥えているかどうか、の記入をさせたこと。
又土木工事としては、大阪当時の繁華街の地下に暗渠で、総延長約800mに及ぶ太閤下水が作られ、現在も現役の下水として機能していること、は特筆すべきであろう。太閤下水
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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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