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安土・桃山時代の信長を活写したルイス・フロイス

織田信長は、根暗で猜疑心が強く、人を俄には信じなかったようです。物事についても疑い深く、裏を取るコトによって、漸く信じたようです。この癖のため、旧弊的な、習慣や、盲信的な古い慣習で徒党を組むモノへは容赦ない殺戮を行ったようです。

暴れん坊で、父親城主の城には置かれず、田舎の勝幡城に預け置かれた、吉法師時代にさえも馬の扱い方を正式に教えた隠居老武士の、馬についての教えは、とても従順に覚え、馬を疎略に扱う者にはとても手厳しかったようです。1560年、当面のライバル、今川義元が桶狭間に出てきているとの、乱破の報告を受け取るや、即刻、取るモノもとりあえず、われに続けと叫びつつ馬を駈って、清洲の城から、約50分間の熱田の宮の手前の川まで、一気に駆け抜けている。此処で馬にくさを喰わせ、水を飲ませ、部下25-6騎が追いついて来て、馬を飼うのを待っている。馬の心臓は小半時までは、疾駆に耐えないと、この老武士の経験談を肝に銘じていたからに他ならない。ここから桶狭間までは小半時の距離okehazamakosenjou.jpg
、馬に草をあてがって、脱糞させ、汗を抑えてから、やおら、桶狭間に立ち向かって、寒冷前線通過の風雨を幸い、今川陣の油断もあって急襲出来、少数精鋭で、義元の首級を上げることが出来たとされる。
他の戦国武将と信長の性行の格段の違いはこの合戦の武功の第1番に挙げたのは、義元に一番槍を突けた毛利新助ではなく、義元桶狭間に出張る、の報を走らせた乱破のかしら、簗田政綱に与えられた。毛利新助が不満顔したのは当然であろうが、信長にとっては情報の重要性に重きを置いていたのだから。こうして信長の考えは当時としては、毛利新助びいきの明智光秀らの反感を醸し出させていたかも知れないのだが。

どこかのテレビでやっていたが、信長は、ルイス・フロイスと言うポルトガルの20才で日本に来たという若い宣教師と、安土城時代の、足利義昭擁立時代に、二条城の改築現場で、始めてあっていたようである。その後、ポルトガルの、巡察司アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日の際に、通訳兼案内人として、安土に来て、数々の土産を持ち込んだが、その中に地球儀があった。信長は珍しモノを好んだが、始め地球儀は理解し得ず、バテレンの邪魔物と言って一度返している。数ヶ月してから初夏の晴れた日に、信長は、安土の天守から琵琶湖を眺めていた、、、が、琵琶湖の水平線がマアルク伸びて、右下がりなのに向こう岸が見えずに切れているのに気づくと、、、。急ぎ、広間に帰り、部下を呼んで、フロイスに急使を立て、「、、、大地の丸きをこの目にて相識り候にて、、、」と地球儀の返還を乞うている。フロイスが、信長の信頼を得た瞬間でもあったのです。ti1.jpg

琵琶湖の水平線が見えたかどうかは良く議論されますが、論より証拠、このサイトをご覧あれ!
こうして信長は、ポルトガルこそ、新知識の宝庫、この知識情報を学ばねばならないと、京都に、後に先斗町(ポント町と読む。ポルトガル語でPont=岬、一番出っ張ったところの意)と名付けられる、町に講義塾の茶屋を設けたのであります。こういう行為は、現在でこそ、おおかたの納得が得られますが、旧来の陋習の固まりの世俗の世にあっては総て「奇行」に見えても、仕方のないことだったに違いありません。

こうして、天正遣欧使節の4人の少年のポルトガル及びローマへの派遣の、この巡察司ヴァリニャーノの提言もすんなり受け容れています。もしこの使節が、信長の存命のウチに、帰国していたら、日本のヨーロッパ向けての開国は、世紀単位の差で早まっていた可能性さえ否定できないと思います。
この少年使節の選定と渡欧策を九州大名に請け負わせた頃、竹生島事件で、城内規則を軽んずる宦官や、女官・女御どもを徹底制裁したために、その後まもなく女どもの恨み、浮気相手を制裁された、某知将の恨みを買っているとは知らずに、、、本能寺の炎の中に果て手しまうことになってしまいましたが。九州大名の手で、天正遣欧少年使節は、何事もなく、ポルトガルとローマに着き、見聞を広め、6年の後に無事信長亡きこの国に帰国しています。とても残念なことです。太閤秀吉は既にキリシタンを禁じ、鎖国に走っています。

孫が次々高校生になると、良く訊かれたのが、、、この信長の築いた安土の城、、、いったい何処にあるの?
日本史の参考書をよく見なさい!自分で調べるのが勉強です。なんて、言うモノの、自分もうろ覚え、琵琶湖の北の方に浮かんだ、竹生島からまっすぐ南に下がると琵琶湖の南岸に切れ込んだ小さな入り江を伴う岬がある、その岬の根本の小高い丘の上、と記憶。孫どもの使った吉川弘文堂の日本史年表・地図の28頁にほら!位置と址001.JPG mc安土城の図.JPGmc


実は、日本史の教科書に出てくるような、根暗で猜疑心の強い、竹生島事件で、信長が家来と竹生島に船で参詣にに行くと出かけた、しめた今日は帰らない!と女官やニョゴどもが、城を抜け出して、お城のツケで、町で飲み食いや買い物しに出かけた頃、信長は部下の半数を連れて、(竹生島へは代参を行かせた!)城に急遽帰って、点呼を取らせた。許可なく町へ、親方安土城!を決め込んで出かけていた女官やニョゴや、その付き添い女どもには、死を賜ったとある。「情け容赦ない」が、会社の服務規程に従えない女性社員が、社長が外出したとて、町で会社のツケで飲み食いしたり私物の買い物したりしたら、、、首デスワナ。これなどは、信長の旧臣・太田和泉(牛一)が、信長が、足利義昭を報じて上洛した、永禄11年(1569)から本能寺饒辺で果てるまでの信長の一代記とも言うべき「信長公記」全16巻(シンチョウコウキと読む!コトに注意=陽明文庫蔵)にも記述あり、ですが、、、信長が、地球は丸く、地動説に傾いていって、理解したと言うことや、、、馬の飼い方や、馬の心臓のデリケートさが、その早駆けの続く時間は45分かせいぜい持って、50分間でしかない、斃れて死ぬが、、、と言うことをよく知っていて、馬を疎略に扱う部下には殊の外厳しかったことなどは、このフロイスが書き残した「日本史」の中の信長の描写にしか出てこないようです。イエズス会は日本(特に京都=その4年ほど前に京都のキリスト教伝道師は総て追放されたことがある!)特派宣教師として、インドのゴアで育って、宣教教育を受けて、16才で試験に合格研修して20才で選抜された、このルイス・フロイトを永禄6年(1563)にマカオ経由で日本松浦湾の横瀬浦に上陸させている。1年以上掛けて、日本九州の事情をしらべと京都のその後の噂を収集、翌永禄7年旧暦ですぞ、12月29日に京都入洛を果たしている。足利幕府の余命幾ばくもないことを察知、数ヶ月で一旦九州に引き揚げている。その後の数年は、肥前(長崎、佐賀、島原)、豊後(府中、中津)、肥後、などを巡回していたようです。永禄11年足利義昭を奉じて、織田信長が、上洛したニュースに織田が、若い青年らしいと知って期待し、準備して、再びの京都を目指したようです。翌12年、上述のように二条城の改修現場で、信長に会っているようで以降のことは記述したとおり。ゴアを出て、4-5年となるのに、殆ど報告書の出ないのを、訝ってイエズス会から、日本事情書の記述を進めておくようにとの命令伝達が1568年にあって、信長にあった後から、急に物書きを始めてしまったようです。1日に10時間を超える、物書きの日もあったようです。永禄11年から14年の4年間書き留めた、日本事情報告書が先ずマカオに送られたが、マカオの司祭が呆れるほどの大量であって、直ぐにはゴアにも送れず、、、、、思案投げ首。急に司祭更迭があって、この書類の山は、20年ほどもマカオの埃に埋もれたようです。ゴアからの巡察使がマカオに寄った際に、これなんだ?で再発見されるまで。
この膨大な、報告書を纏めるためにイエズス会は、3人の研究熱心な分野のそれぞれ違う宣教師をマカオに派遣したようです。2年近くかかって、纏められた「ルイス・フロイスの日本史」が、現存するこのときの、抽出されたフロイスのエキスのようです。フロイスの自筆書ではないのですが信長についてはかなり好意的に見ていたことが窺われます。
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