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商用交流周波数問題は日本の電力界の朝ぼらけ事情から

現代の感覚をチョイと忘れていただきましょう。電燈と言うと何を連想されますか?エジソンの白熱電球?それを忘れていただきたいのです。19世紀の初めに電気で照明をした最初は、アーク灯でした。イギリスのデービー卿のアーク灯(1808年発明)というモノが、半世紀ほども続いて、不安定で時に危険な照明装置でしたが、同じくイギリスの時計職人が2世紀近くも前に始めた、バイメタルの反り方をアーク炭素棒(初めは直接タッチ)の間隔を自動的にスタート点弧もし、間隔調整も自動的にするように炭素棒支持具に応用して、ガラス鐘の中に入れることを得て、空気による炭素棒の燃焼をほぼ完全封鎖節約できるようになって、割と安全で、屋内でも使える照明になっていたのです。但し、アーク自身は直流でも交流でも使えるのですが、未だ当時は発電機が無くて、アーク電流に耐える大電流発生用のグローブ電池という亜鉛板、銅板、とそれに高価な白金陽極を使う一次電池が使われていました。お金のかかる、物珍しさだけの明かりに近かったのです。
終戦直後の昭和20年代、当時の照明学会の会長、大山松次郎先生に拠ればこの封止型アーク灯、日本では、明治11年に茅場町の電信局の開局記念展示と、外人による明治16年の銀座複数灯のデモンストレーション、それに神戸、大阪、京都で、それぞれ数時間宛の点灯があっただけ、とのことでした。浮世絵に残る銀座、アーク灯の点灯風景です。このアーク燈による電気照明と言う潜在観念が日本の電気の発電に災いして、、、現代の商用交流周波数(関西60Hz/関東50Hz)問題に尾を引いているのです。
denki1M11木挽町アーク灯
明治10年代は、鹿鳴館時代と言って、文明開化を外国からの借金で偉い人が楽しんだ富の偏在した時代でした。
そうだった、蝋燭やランプの時代ではないと、横浜ではガス灯の実験があるなどしたところへ、新聞が、発明王エジソンが電気で灯す明かりを、ニューヨークの町に普及させる、、、と報じて、、、当時の日本財界の大倉喜八郎が、当時の工部大学校(後の帝国大学工学部)でアーク灯の実験研究していた藤岡市助の提案を受け容れ、出資者を募って東京電燈会社を興す運動を始めたのが、皮肉にもエジソンが交流発電機(蒸気エンジンダイナモ)製作に成功して高圧で配電して、トランスで変圧して、自分の発明した炭素フィラメント型白熱電球によって灯す交流配電システムを1882年に発表した翌年のこと。この詳しい仕組みは、新聞記者にはナンのことか判らず只電気が配電されるとだけ報ぜられたのでした。当時日本で東京などは、電信線は既に一部では、役所間に配線されていたりして、電信柱はあったようですから、電線だけ輸入すれば、何とかなる、、、の感覚ではなかったでしょうか。
エジソンvsスワン電球比較
エジソンのカーボンファイバーによる白熱電球はイギリス出身のハインリッチ・ゴーベルが1854年には既に研究していて特許係争となり、6-7年も遅れて、1879年に双方特許されています。その後更にエジソン電球はリード線の引き出し方法と口金で、スワンの白熱電球と、特許係争が相次ぎ、スワンの電球は、今もスワンベースの名が日本にも残っているとおり、つるっとしたベースに一寸出ただけの2本の突起で、ソケットに簡単に半回転捻り込むだけで固定出来て取り付け・外しも簡単でしたが、エジソンのは、ソケット一体型に近く、配線をターミナルにつなぐ方式で器具的には後れを取っていました。これが解消されたのは、エジソンの特許が切れて、1893年にエジスワン電球に和解がなって、今のスクリュウねじ込みスタイルになったお陰です。

本論に戻ると、、、交流の利便さは既にエジソンは発表していたわけですが、新聞が理解せず伝えずで、日本では東京電燈会社は、ドイツジーメンス社から、直流の蒸気エンジンダイナモを輸入、5年間ほど浅草橋付近5箇所に発電機を置いて、アーク灯での配電を企画したようです。しかし絵に描いた餅は普及は難しく、資材、部品、電線、何一つ国産はなく、殆どを舶載輸入に頼らざるを得ず、ちぐはぐして浅草橋電燈局の実現に5年ほどもかかっているようです。この間関西に先行されてもそれには学ばず、孤高を保ったかのよう。近隣にも品川電燈、深川電燈、横浜には横浜共同電燈などの動きが出ています。

一方関西。東京で、学者の提案と財界第一人者が動いて電燈会社が作られる報は、目ざとい大阪商人にも、神戸にも伝わり、たまたま神戸には、ポルトガル海軍士官上がりの領事代理のモラエス(新田次郎の小説「孤愁(サウダーデ)」の主人公)が赴任してきたばかりで、ヨーロッパの産業界の動向のみならず、アメリカ東西両海岸の事情にも通じていたしマカオからニュースを仕入れられることもあって、彼の住まい付近の外人居留地目当ての神戸電燈会社の発起(モラエスも配電に土管を使う地中配線計画で、設計に参画したと伝えられる)が行われ、明治21(1988)年に一旦配電に成功している。このときに使った蒸汽ダイナモは、GE製の60サイクル交流発電機だったとされる。翌明治22年年京都、大阪、と名古屋に電燈会社が作られ、これらは総て、WE(ウエスタンエレクトリック)もしくはGE(ゼネラルエレクトリック)のアメリカ製の発電機で60サイクルのモノであった様です。更に、
京都では疎水開発に日本最初の水力発電を取り入れようと府知事の肝いりもあって、工部大学校(現在の東京大学)を卒業したばかりの青年技師田辺朔郎(採用当時は満21才)が起用され、明治24年,蹴上に日本最初の商業用水力発電所が稼働しています。

東京電燈が一番もたついたのはジーメンスの直流発電機による配電で、ジーメンスも、今更直流はないだろう、交流だろうと50サイクルの交流発電機を薦めたのに対し輸入業者がサイクルの何かを理解できず障碍になったと思われる。上野の科学博物館にはこのときのジーメンス製複丁型直流ダイナモが保存されているようです。神戸より1年以上も先に発起はスタートした東京は、こうして日清戦争前年に漸くジーメンスの推薦の蒸汽ダイナモ交流50サイクルで、細々と、再スタートしたのですが、、、潜在需要はさすがに他都市を凌ぎ、その年のウチに大型発電機が必要になり、浅草に火力発電所の建設を急ぐことになってしまう有様。
翌明治27(1894)年に浅草火力発電所は、建設されますが、急いだあまりに、、、故障に対する考慮が全くされない建家計画で、今回の地震で明らかになった福島第一原発とも同じ過ちの、機械の設置間隔が保守やメンテスペースを無視した間隔設置設計で(証拠写真:浅草火力発電所の発電機配置をご覧あれ!)、、
tokyodento3.jpg
おまけにハイカラコンクリート建家で、雨が降れば天井のど真ん中から滴が垂れて故障の原因となる始末で、、、
故障続きで10年ほどで、機械ごと放棄して、千住に火力発電所を移している。建家の雨漏りや蒸汽の籠もり滴のたれ事故は神戸湊川発電所でも同様で、煉瓦屋根やコンクリート屋根では防水しきれず、トタンで二重屋根を作ってかろうじて凌いでいた。f0116479_222085神戸湊川
大阪電燈は、配電始めて初期から躓いて、宇治川発電、関西配電と、初期に経営が3転していますし、神戸も配電区域を改める大型発電に際して、経営問題はあったようで、電車会社の参画に直流発電を考慮するなど、もたついたあと漸く神戸電燈を再建しています。

千住火力smc
千住の建設直後の発電機までは、蒸気エンジン型で、高い建屋が必要であったが、大正以降の発電機は、タービン発電機となってコンパクト大容量になり、建家も小さくなっている。アメリカ製には珍しいとされた、50サイクルGE発電機があったようです。tokyodento5turbogene.jpg
その後、明治40年にいたり、山梨県の桂川上流の駒橋という所の懸崖を利用して、日本初めての水力発電所が作られ、大型発電機(国産)も作れるようになり、80kmを超える送電線の架設も始めて成功し、tokyodento6駒橋水力M40
この国産化発電所の成功と、万ボルト以上の送電線架設の見込みが立って、日本の水力による発電があちこちで目論見れる様になって、電燈の普及が本格的に始まったのですが時既に遅く、関西60サイクル、関東50サイクルの溝はフォッサマグナに負けず劣らず深く刻まれていて、
電気技師達がどう苦労しても、未啓発な文科系の「サイクルなど知ったことか!」という人々の介在で明治の時代から電気の明かりさえ点けばえばって居られる先生さまによって、、、、電車汽車のレール幅(軌間距離)問題よりも根の深い国家百年の計の過ちになりつつあるようです。
戦後、GHQ時代にも、一応話題にはなりましたが、教育制度の改革のマーカット少佐のような専門軍人が電力改革軍人は居らず、後に電力の鬼と呼ばれるようになる、当時日本発送電(株、後の電源開発(株))を牛耳っていた松永安左右衛門も、、、「九州はこの際ナンとか統一しよう、が関東東北はそれよりも戦災復興を優先しよう!、、、」と当時としては文字道理「サイクル」の合わない一歩も二歩も後退の宣言してしまい、その後はそれほど「ヘルツの違いのわかる」大物政治家も電力人も現れず、、、「サイクルの違いも文化の違いのウチ、何ほどのコトやある!、、」で打ち過ぎてとうとう百年がたってしまいました。(60ヘルツと50ヘルツとでは電気量あたりの仕事効率が回転機械では、20%も違うのですがね!省エネ時代に何が大きいって!これほど大きい違いは他にないのです。!!)

エッ!それで藤岡市助はどうなったって?帝国大学の工学部教授拝命してまもなく、東京電燈の技師長になり、教授は辞職、東京電燈が本格的に電球も自社生産しようとする前に退社、白熱舎という電球製造会社を興しますが、芝浦電気の電球技術(マツダ)に負けて吸収合併されてしまいます。一方の東京電燈自社開発の東京電燈電球製作部は電球製作に成功して、独立会社となり後の「トウランプ」を供給し続けました。この頃は、大河内財閥の理研の「リーランプ」がマツダとトウランプを追っていたようです。。matuda lamp
1453トウ ランプ
理研リーランプ
明治から大正に書けては電力消費の目玉は、電車会社、今も残る湘南地帯の足、江ノ電の支柱が、が電力配電線の電柱をかねるように電燈会社が電車の経営を始めたのです。西北多摩地区の帝国電燈が始めたのが西武電車。等々、、、。
関東大震災後の復興と共にローカル的だった電燈会社が本格的に配電統合して、大電力会社統合が行われ、富士川糸魚川の線を目安に60サイクルと50サイクルが別れます。しかしこのときの中古火力の設備をもったいないと、九州の発電会社が活用したために一部九州に50サイクル地域が戦後まで残りました。
昭和になった頃から、全国的に電力配電会社は、配電は定額灯料金制で、電球の代金は最初契約燈数通り一度払い、あとは切れた球を交換所に持っていけば交換支給する制度で、あちこちに電球工場が出来ていました。
子供の頃科学画報などの雑誌や新聞広告で見た覚えのある電球は、これらの他には東輝、メトロ、ホリ、トーア、ワールド、東邦、イエス、あづま、等々東邦電球以外はすべて、xxランプだったと思います。日中戦争に入った頃、松下電器が、やっとナショナル電球の名で電球に参入しています。もはやランプは遠くなりにけり、だったのでした。

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