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中国の「辛亥」革命、これも干支で年を表したモノ

今年1月24日、通常国会の開会に際しての菅直人首相の施政方針演説に、中国も「辛亥」革命から100年という発言がありましたね。このブログで説明した、日本の「戊辰」(ぼしん)戦争や、「壬申」(じんしん)の乱と同様干支で年を特定しておけば、後から歴史の中で年を特定できるという発想で、3千年イヤ4千年以上前から、使われた方法ですね。(子供のなぞなぞじゃないけど、その年がその時点で、「西暦紀元前2031年だ」、なんて絶対わかかりっこないんデスから!干支で年を書いておくしかないんですね)
某週刊誌(写真付き)によると、この菅直人首相の演説原稿はフリガナ付きのタイプ印書で、「辛亥」には(しんがい)と振り仮名があるようです。干支の組み合わせ60通り全部読めますか?辛亥革命004mc

まあこの演説で、100年というコトが判りましたから、1911年つまり明治44年のことだったんですね。
日本では、前年に、日韓併合という、民族的なことがあり、島国根性的に併合民族蔑視の風潮が、始まろうとしていました。これには、更に前々年、何度も首相にたって、当時は枢密院議長の要職にあった、明治の元勲の1人でその立場上、日韓併合には反対であった伊藤博文が、ハルピン駅頭で安重根によって、暗殺されるという事件が下敷きになっていたのでした。まあそれは、日韓関係でのこと。一方の中国では、もう少し前清国第11代の光緒帝の頃、、、
中国大陸を満州族が治め、「清」(シン)と称し第11代光緒帝が皇帝の位に位置していましたが、、、HenryPuYi.jpg
上層部の高官が皆、長子役職世襲の弊害で、危機感がなく政治に無関心になりがちで、、、諸外国が、この大陸大国に、隙あらばと押し寄せてきっかけをほしがっているというのに、隙だらけで、ついにイギリスに政治顧問団を要請しかねない状況になっていたわけです。そこに、1894年日本海軍が訓練を装って黄海で、丁汝昌率いる北洋艦隊に砲撃を仕掛け、日清戦争が始まり、大陸では、李鴻章率いる戦争請負私軍団が、日本軍と交戦しますが、,,1年で敗戦、大枚の賠償金(当時の日本の国家予算の4年分に相当)支払いと台湾の割譲、と言う結果に終わり、ますます疲弊し、英国の政治顧問団による委託政治体制になります。心ある国民が黙っていられるわけがありません。不満はいろいろな形で、噴出します。政府閣僚の中にも、改革論者が1人、じわっと進言しわずかな体制強化が図られますが、、、皇帝政治に反対する民主化への動き、特に米国のリンカーンのゲチスバーグアドレスを学んで、「三民主義」を旗印に掲げた孫文らが、国外初めは米国から執拗に声を掛け、旗を振ります。何度も大陸潜入を試みますが、失敗、時に香港から、又時には日本から、、、そして最後にシンガポールから、、、7億の国民に呼びかけます。この間15年、清朝皇帝も内閣も疲弊の極に達し、そうした中で光緒帝歿し、まだ幼少の宣統帝愛新覚羅溥儀が即位し、、、(映画「ラストエンペラー」にもありますね)英国顧問団の権威が拡大します。ついにたまりかねた孫文が、身の危険も顧みず大陸に乗り込んで、名実ともに臨時大総統就任と溥儀の大清皇帝約定宣言したのがこの辛亥の年1911年、実に17年がかりの息の長い革命遂行劇だったのです。この間、孫文の身辺警護セキュリテイーに力を貸したのが、後に自身も講道館の高弟であった富田常雄の柔道小説に「姿三四郎」として講道館を淋しく去るまでを描かれる、、、奇才西郷四郎、、、の講道館を去ってからの姿だったようです。220px-Sunyatsen1.jpg(中国に残る孫文大総統の当時の写真に彩色した写真の一つ)
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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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