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もう一つだけ干支「癸丑」(みずのと・うし)太平であるべき天下が!

嘉永年間以降の、幕政を嗤う狂歌の一つ名作でもありましょうか、、、

" 太平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった4杯で 夜も眠れず "

狂歌の方があまりに有名になって、「太平の」という枕詞に隠された、この歴史的事件の歳周りが、全く忘れ去られようとしています!60年で一回りする10干・12支の組み合わせのウチで、最も平穏無事・且つ人の性格でも最も冷静沈着とされるのが、「みずのと・うし」,,,嘉永6年!
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120px-Kurofune_2.jpg120px-Kurofune_3ボーハタン


南蛮渡り(越南方面産の物資)の樹液でピッチを溶かして、出来上がった船の水止め塗装をしたから、当時の外航船は黒い厚い塗装で覆われていました。黒船と言うからには鉄鋼船だと頑なに決めてしまう人がいますが、冗談も程々に、鋼鉄船が当時どうやって、作れたのでしょうか?鉄板を折り紙折るようにして?まさか!鋲打ちが出来るようになっても、船の膨張伸縮があり、焼きすぎ鋲は応力腐食で、海水で細ってしまい、例のイギリスが誇った、タイタニック号でさえ、処女航海で、氷山にこすっただけで、鋲頭が何十本も折れてしまい、漏水して沈没に至ったのですよ!今もベトナムで産して、木の蔓でかご編みして造る船でさえこの樹液を何回も塗っては乾かして塗り重ねれば丈夫で水の決して漏らない船が出来るそうです。何度も塗り重ねる手間を省いて水漏れを塞ぐだけのためには、大型船では木造船、鋼鉄船に関わらず当時は、樹脂と樹液で溶かしたピッチを塗り込んでいたわけです。それで黒い色をしていたのです。
この頃すでに産業革命から半世紀後で、欧米では鉄道線路が、どんどん延びて、河に鉄橋を架けるために人足が河へはいると砂の下に砂金がいっぱい溜まっていたりして、、、あちこちで、ゴールドラッシュが起こっていたそんな時代です。嘉永2年が、カリフォルニアのゴールドラッシュで有名な1849年フォーリーナイナーです。

それから4年後、フルトンの外輪船や内輪船の蒸気船が、オランダ船が長崎通詞を通じて、長崎奉行に予告して10数日後に、アメリカ東インド艦隊の旗艦サスケハナ号、ミシシッピー号、帆走サラとが号、とプリマス号の4艘の黒船が、浦賀沖にやってきて開港碇泊の許可要求を突きつけたのです。嘉永6年7月のこと,,,
一番小さいプリモス号でさえ、12門の大砲を持つと聞いて、幕府も震え上がります。艦長は特使で、マシュー・ペルリと言いました。捕鯨船への、水と薪の補給基地にしたいというわけでした。この時代も含めてアメリカ捕鯨は、鯨の脂が欲しいだけで、肉は海に捨てる、油資源のみ目当てのもったいない捕鯨でした。アメリカ近海の鯨は取り尽くしていよいよ日本近海にまでのしてきたわけでした。
結局幕府は翌年大統領の親書を持って5艘の黒船で再来した特使を横浜村まで迎え入れるのです。400px-1853Yokohama_01.jpg

まさしく、「太平の眠り」は破られ、開国に向けて、文明開化へ「目を覚ま」さねばならなかったのです。尊王攘夷派も盛んとなり、坂本竜馬が大活躍、薩長同盟を結ばせますが、、、薩長の思惑は、自分らが天下を取り牛耳るつもり、、、竜馬は最後の将軍慶喜に大政奉還すれば、総理大臣に据えようと言うつもりで、、、だいぶ思惑にずれがあり、、、大政奉還完了で、慶喜も竜馬も薩長には不要人物になりデリートの対象になってしまうわけです。
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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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