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今も残る干支の単語「丙午」と「庚申」塚など

昭和41(1966)年生まれの3女の母になった私の娘は確か「丙午」の女でした。井原西鶴の「八百屋お七」で有名になった丙午生まれ上総の娘で本郷の八百屋に養女に入ったお七、14才の頃、近くの火事で、避難したお寺の庭で見初めた寺詰め小姓のイケメンに、心を奪われます。2正月過ぎた頃、もううずいてたまりません。どうしたら逢えるだろう?、、、あっそうだ、あのときも近所の火事で、あのお寺に逃げ込んだのだった!そうだ火事にすれば!で、、、付け火してしまう。イケメン若衆には一目会えたが、天網恢々疎にして漏らさず、付け火の目撃証人が居て、囚われの身となる。
西鶴の人情話ですが、ここで、町奉行は苦労人、当時でも数え15才以下は罪一等を減ずる条項があった。これで、島送りにデモしようと、、、白州でお七に、その方いくつに相成る?と訊ねるが、16才と答える。更に奉行は、声を改めて「年端も行かぬよう見受けルが15才であろう?」と誘導尋問するが、、、お七は、「いえこの年があけて16才にございます」とはっきり答えてしまう。
こうして、哀れやお七は、鈴ヶ森の刑場で従容として火あぶりの刑に就く。巷の紅涙をそそる場面。
そんなこんなで、丙午の女は血の気が多く、時に亭主を喰い殺す、とまで言われるようになった次第。
日本では、葛の葉雌狐と、深草の少将の子と言われる安倍晴明に発するとされる陰陽道的に見ると、、、丙「火の兄」は陽、「午」も陽、いずれもとびっきりの陽とされる卦の組み合わせらしい。
それが時に火を呼び、この年は火事が多いとされる。お七が居なくなろうとも世の中特に江戸時代の江戸は ♪ジャンとぶつかる半鐘の!、、、」の火消し野狐三次の、浪曲の出だしじゃないが、、、丙午の歳は、火事が出やすかったらしい。

もう一つの陽と陽の組み合わせもこちらは歳周りでなく日のえとの方、2ヶ月(これも60日で一回り)に一夜、いろいろ持って回って複雑因縁が付い多複合行事となってつい先頃まで、信仰の対象であり得たのです。地方の町外れなどに、「庚申塚」の庚申塔などは今も残っているはずです。
江戸時代のあとの方で、日枝山王の信仰と山王の使いの猿を共通点として結びつく以前は、、、金の兄・申とどちらもギスギスのカナッケ。キンキラキンの冷酷さの代名詞であったのです。自身が死んだと知らずにあの世に行った霊などがこの庚申の夜に突然やってくることがあると奈良時代から信じられていました。この夜は、家長の家の一室に全員こもって一晩中、祖先の名を読み上げたり、詩歌を詠んだり、不眠で夜明けを待つ、庚申講と言い、後に室町の頃からは、仲間内まで集まって、不眠の夜を過ごすようになり、やがて、詩歌だけでなく音曲入りから江戸時代では、酒まで出るようになったようです。
このあと、どうしたわけか庚申の申と、、、♪山王の桜に3猿三下がり、、、合いの手と手と手手と手と手、、、」などと言う手合いと結びついて、信仰塚、庚申塚とその上に見ざる、言わざる,聞かざるの彫り物のある庚申塔などを建てた猿塚が出現します。Koushin_kuyou_tou1.png
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明治の廃仏毀釈にも生き残りますが、、、何故か関東大震災頃に、急に火の消えたように、庚申信仰は消えて、、、庚申塚の謂われも知られなくなり、庚申塚だけが、残っているようです。

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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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