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歳周りが還暦ですから、赤いちゃんちゃんこも正月!壬申の乱

干支は実は、前前稿でも書いたように、、、日毎にもあります。昔の日めくりゴヨミには毎日これが書いてありました。これと、歳周りの、いわゆる俗称「えと」、これを混同しては、満年齢で考える今日、色色な、おかしな混同が起こり意見の食い違いが生じます。数え年旧暦時代の、たとえば、嘉永6年生まれの私のひい婆さん、に聞いた話では、「ワシの若い頃は暦は旧暦で、正月も、旧正月だった。ワシが60になって、そろそろ還暦だなと思って、姉に尋ねたら、[そう、数え年では61才の正月、勤め人おうちでは新正月だろうが、ワシらの百姓家では、旧正月しか祝わんから、旧正月だが、大晦日の晩に、新しい着物に着替えて、除夜の鐘が鳴り出したら赤いちゃんちゃんこ着てみんなに祝って貰って、朝まで脱いだらいかん、大晦日に人間は皮脱いで一つ年取る、このときに魔物が一番旨い赤ん坊に返る還暦じゃ!と言って待ち構え取るから、その魔除けに赤い袖無し羽織(関東東北ではちゃんちゃんこ、中部地方や関西四国などではデンチという)着るんじゃ、隙見せるといかんよ、、、」と教えてくれたという。
中国では総ての家の柱が、赤に塗られていたり、家の門やドアが赤い。魔物が赤を嫌うと信じられているから。220px-Red_lanterns,_Spring_Festival,_Ditan_Park_Beijing_
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高松塚古墳の頃まで、日本でも、塚の陵棺や甕に、朱(硫化水銀・変色しない真っ赤な顔料・毒性があり殺菌剤になる)が塗られていた。古代人の祭祀に必須の色粉、であった。このほかに、金と水銀は、民族・部族の首領、王が、下々の統率を図るための重要な、金属材料であった。例を神武天皇の東征にとって見よう。卑弥呼と、神武の関係は知りませんが、、、とにかく、神武以前に、九州宮崎の南の辺りまで、金と朱と水銀を掘り尽くして、地表近くではもうこれら首領としてのまじない金属を掘り尽くした連中は、、、必死で探査部隊を東に送って、大和の地、今の奈良県で、具合良く大量の朱と水銀と、五条の辺りで金もみつけたようです。この報は早速東南九州の神武本隊に伝えられ、では、っと秘密裏に沢山の刳り船を準備し、沿岸航路で北上して、瀬戸内海に出、浪速を目指しますが、その手前に(当時の銅鉱山としては、山口県・秋吉台の東の長登銅山が主、岡山の柵原銅山他四国別子他アリ)武器庫を備えた兵庫の豪族が立ちはだかります。大事な奈良の金属埋蔵のことがばれないように、そこは一歩譲って、紀伊水道を南下し、熊野灘も嵐を避けて、黒潮に乗り、新宮の付近から上陸、探査部隊と吉野の辺りで会いますが、こちら側にも、ヒト部族がおり、通せんぼ、、、金メッキの応用で、この者達が、金や水銀のあることに気づいているかもテストする好機、とばかり、黒雲が空を覆ったのをこれ幸いと、銅の鉾の穂先に、水銀アマルガムを使って金メッキして、雲間から日の射すところに立って、光らせた。こんな魔術のような人たちははじめて見たとて、直ちに降参、、、これが神武の魔術・金の鳶事件。この時代の金の採取方法はすでにアマルガム法ですから金採取できるヒトは金メッキも出来たのです。、こうして神武東征軍は易々と奈良盆地の周りの金銀水銀朱と銅まで手に入れて、周りの部族も平定して大和朝廷を形成出来たのです。そのくらい、魔物を押さえる朱は金メッキ用の水銀とともに金と同じくらい重要な征服平定用材料だったのです。

この九州の金属資源が枯渇して神武東征が必要だったと言い出したのは、今から45年ほど前、同じ表面処理研究グループで、メッキや表面化成処理などの、委員会を作っていた頃主要メンバーだった、日大の化学の教授、故・山本洋一教授が、世界の金属の歴史の考証をしながら、その会の月刊機関誌「表面処理ジャーナル」誌に、連載された「金属の歴史」によります。
インターネットに記事を残すには証拠というか、参考文献が要るようですから、ついでに書いておきますと、この金属の歴史前までのは、高校日本史の参考書、吉川好文館の参考書に依りました。この参考書の年表などには、この天皇時代のはっきりしない応神帝以前などの歴史時代の参考文献としては、古事記・日本書紀・後漢書・魏志・宋書・好太王碑文 としています。
この年表では、中国史の記録に残る最初の國 殷の最初の記録が、西紀元前1500年頃青銅器とともに出土した甲骨文字にすでに干支が書かれていた、とされています。論語の孔子の生きた時代が、東周の550BC-479BCでアリ、当然年次は干支で示されていたと思われます。
諸葛孔明などが大活躍するパソコンゲームでも名高い、三国志の、、、魏・呉・蜀の三国時代が、AD220-280 年頃、丁度卑弥呼の邪馬台国の頃というわけです。日本はまだ揺籃時代、、、後漢書などに倭の王がどうしたこうしたと出てくる以外には日本側の記録はありません。391年の日本軍が百済王の支援要請に応えて、百済の敗勢濃いところを支えた功績が、高句麗の好太王碑文に出てくる程度ですが、百済がこのときに王子を人質として日本に差し出したことは記紀にあるようです。更に404年高句麗が図に乗って、南鮮任那や新羅の加羅を攻めますがこのときも日本軍を渡海させているようです。天皇の時代と比定してみますと、応神天皇の時代で、古い昔の日本歴史教科書では神功皇后という、中国の則天武后の向こうを張る架空かも知れない女王が攻めたことになっていましたが、、、高句麗に残る好太王碑文には特に女性指揮官だったことは記されてないようです。
しかし、このあと蘇我稲目の娘を皇室に引き入れるや、天皇制は蘇我家の姻戚のたらい回しとなり、蘇我氏側が権勢を恣にするためには、女帝を多く登用します。賢帝推古はまあいいとしても、、、蘇我の血筋の女帝達が、その旦那帝と交互に立つわけです。推古帝と蘇我氏002mc
このあと、百済や、新羅が高句麗や唐に攻められて、日本に援軍を何度か求めてきます。出せるときには援軍を送ったようです。蘇我の一族の最後の女帝2回目天皇名は「斉明」の時に(663年)、いつもの調子で、刳り舟に手槍の軍勢で、援軍を送ったところ、唐軍は新兵器長弓と、火矢の新兵器で攻めて来て、日本軍はなすところなく白村江河口に追い詰められ、油と火矢を放たれ400艘の船を焼かれて岸に逃げたモノだけがかろうじて生きて捕虜になったのが約千名。指揮をしていたはずの中大兄は、いつの間にか日本に逃げ帰っていた。そして後の世に大化の改新と言われる、蘇我一族の朝廷への権勢にトドメを刺す、宮中の、クーデターを計画し、皇子どもの協力も得て蘇我入鹿の斬殺に成功します。皇極帝は驚いて翌朝、直ちに退位し、帝位を弟の孝徳に譲ります。大化の改新を巡る人々003mc
しかし、孝徳帝はひ弱で、後見の蘇我も居なくなった朝廷では心労から衰弱この世を去ります。帝位を次ぐモノに窮した中大兄はいったん退位した皇極帝を説得、62才という高齢をもっけの幸いのように、2回目天皇「斉明」として立て、自分はあくまで皇太子として実権を握ります。かくして、大化の改新律令制のホンのハシリの政治形態を形作り、69才で斉明女帝が崩御するや、心機一転とばかり、大津の宮に遷都して、「天智天皇」として即位します。皇極の頃から自分は朝鮮に行っていたりする間、国内の実政務処理に地道な政治を切り廻してくれた同母弟・大海人皇子の後見を受けながら。当然、大海人皇子の人望はますます挙がる一方。
ここで問題が生じます。伊賀の国造の娘を嫁にして、男児を儲けますが、歳行ってからの一人息子。目の中に入れても痛くないという奴。いざ自分が歳が行って、息子も成人、となると帝位を、大海人皇子に譲りたくなくなり直接一人息子の大友の皇子に譲りたくなる人間くささが出てしまった。いち早く身の危険を察知した大海人皇子は、腹心のモノにはあとから脱出して吉野に来いの暗号を残して取るモノもとりあえず脱出、身の安全を図る。この頃もう天智天皇は、大津の宮の病の床にあり、、、
悪いときには悪いことが重なる、マーフィーの法則とも言う。国難が降りかかるのです。先の、白村江で完膚無きまでにやられた、唐の軍船47隻が、白村江の敗軍捕虜1200名ほどと、百済の亡命希望者を計1400名ほどを送りつけると称して、博多湾狭しとやってきたのでした。その軍使が大津の宮に着く頃に天智は息を引き取り、
軍使の注文「朝鮮征伐援軍派遣のこと」は、天智の亡骸を目の前に、納得、武器をありったけ渡すことを約束して、帰って貰うことに。大海人皇子の腹心の岡山の太宰の卒も国難には勝てず、兵庫の武器庫に少しばかりためつつあった銅矛などを、船数杯に積んで、博多に送り、唐軍の軍船にはいったん引き揚げて貰います。そのあと、博多の南、大野城とその南西の水城を強化し、防人の強化というか東国戦士の防人徴兵の制度化を図ったようです。この後5-60年間に、万葉集4500首が、万葉仮名で書き残されたわけですから東国から九州まで送られた防人、、、どのくらい?それは後日のはなし。しかし、この動員令が岐阜県の不破の関に伝えられ、東国の戦士が、武器を携えて、続々不破の関に終結を始めたので、斥候を放っていた吉野宮の大海人皇子には、自分たちが攻められると、勘違いした。機先を制するにしくはないと、吉野から大津に密偵を出し、高市皇子と、大津皇子に脱出合流せよと命じ、自分は、一族夫人も交えて、夜を日に次いで、柘植、鈴鹿四日市、桑名まで、丸2日、徹夜の強行軍、桑名でようよう休息、これまでに高市皇子は柘植で、大津皇子は途太川(現名:朝明川)で合流している。
壬申の乱を巡る人々004mc
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天智天皇の一人息子大友皇子は、泣きっ面に蜂!兵庫の武器庫は空にした所だし、九州の防人には防備強化せよと言ったばかりだし、東国の援軍は不破の関で待っているというのに、もう岐阜の卒が大海人皇子の手のモノで、不破の関を閉ざして、大海人皇子軍の来るのを今や遅しと待っている!即位はしたらしいが大友の皇子は高市皇子軍に攻め立てられて、やまさき街道を浪速方向に落ち延びる途中の山前(濁らないやまさき)で吉野軍も近道して挟み撃ち、大友皇子、即位はして弘文天皇、あえなく首つり自殺。672年。大海人皇子は大津のみやこは縁起でもないと、飛鳥の宮に帰り、天智の娘(後の持統女帝)を娶り即位して、天武天皇を名乗る。この名は、この事件以来彼が、終生口にした、天命は軍ごとにあり、武を主とすべし、、、にあるようで軍略の先手必勝、と言うわけでありましょう。

日本史に出てくる、干支での記述は、どうしても、前記の通り,,,私の生まれた1932年の干支が壬申、その1260年前の672年が「壬申の乱」、聡明な天智天皇も人の子、、、気弱になって、一人っ子を溺愛したのが悲劇の始まりでもありましたろう。一方の大海人皇子、夫人は名もない下賤の女のようですがそれだけに高市・大津両皇子が粗野に育ってくれていた。頼りがいのある皇子に育っていた。中大兄が派手に表面で活躍ぶっているときに縁の下で、地道に実政務を裁いて、人望が厚かったのが、後日を約束してくれた、と言うこと。結局、天武天皇として即位する。これが壬申の乱。何とも人間くさい、内戦の理由と、結末。

日本の皇室のこの後は今度は藤原不比等が皇室に入り込んで、姻戚関係を紡いで、藤原女帝天皇たらい回しを始めますが、それはまたいつか、折を見て、、、。
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註)図版及び、壬申の乱については、岩波ジュニア新書、吉田孝著「飛鳥・奈良時代」に拠りましたことを記し謝意を表します。
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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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