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相撲放送が始まった頃のラジオ2

相撲放送を主語にしていますが、、、逆に、放送が始まって間もない頃は、相撲の実況中継手段がなくて、国技館に行った記者が幕内の取組表に、勝ち負けだけつけて持って帰り、夜、取り組み勝負結果を、放送するというわけでした。国技館へ行ってみていても当時は、場内放送などがあるわけでなし、結果についても行事が勝ち名乗りを上げるだけで、決まり手は、玄人衆が、納得するだけで、一々発表があるわけでなし。と言う状態。それが、海底電線の改良が、日本の技術者、松前重義氏の発明で鉛チューブ外装で、ケーブルの一定間隔に裝荷してケーブルをつなぐことで、、、電話は無理だが、電信なら何とか大洋を横断できるようになっていたわけでした。(裝荷電纜と言いました)この松前研究室に依頼していた、放送用の中継ケーブルが、昭和5年頃完成して、途中築地あたりに中継増幅器を置いたようですが、とにかく愛宕山まで、言葉がわかる程度の音声歪みで、届くようになって、漸く相撲の実況中継が、暗中模索状態で、ゆるゆるながら始まり、、、アナウンサーが相撲用語の猛勉強をして、日進場所毎ゲッポ、あの早口実況中継になっていったようです。ついでですが、秋の終わり頃、天保山事件で脱退した、朝潮関以下大阪相撲一味が、「朝潮を、横綱にするなら復帰する」を申し入れ、相撲協会も渋々了承、まあ準・円満解決、朝潮は「男女ノ川」を名乗って横綱を張ることになったわけです。

ラジオの受信機のガンは、電波の復調・つまり検波という電波の中から可聴周波だけを取り出すことにありました。電波の2進法的来ているか止まったかでの検出は、銅粉やアルミ粉の接触通電を引き金利用する「コヒーラー」という検出器がマルコーニ時代から使われましたが、彼の助手だったとある日本人によって、一々ハンマーで、通電解除に試験管を叩かされるのを嫌って「こんなモン一日中叩かされてたまるか!人間の仕事じゃねえ!」と電鈴(ベル)の鈴部分を外してベルたたきダマにゴムかぶせて、コーヒーラーを常時自動で細かく叩き続けて解除状態の繰り返しにしておいてCWを受信する方式に改造自分は傍で、居眠り自由謳歌、、、。

次いで世界的に音声まで検波できるのが、鉱石結晶の接触検波器。たとえば閃亜鉛鉱と方鉛鉱の接触点で検波できるというような研究からこれが、接触点が何処でもいいわけでなく、探り当てなければならず、、、1920年代の半ばのクリスタル販売会社の広告と、当時の鉱石ラジオ、その接触点模索式検波器部分の拡大をお目に掛けておきましょう。模索接触式鉱石検波器全mc
この上掲のゼンチスクリスタル社の広告探しは、20年前、当時GW0RTAで、イギリス・ウエールスに勤務しておられた荒川泰蔵OMからお送りいただいた、ドイツのノスタルジー的ラジオの写真集からみつけたわけです。荒川OMに感謝します。
一方前稿に書いた、復刻版2球式RADIOMANNのkosmos社ですが、radioの写真はありませんでしたが同社のロゴと、看板のラジオマンの絵はこの写真集に出てきました。
radiomann004orgmc.jpg
当時1920年代にはまだ真空管の電極部分の製作は、職人芸に頼る部分が多すぎ、とても統一規格決めたらたまらない時代で、、、各社まちまち自社一品製作状態。後にメイジャーとなるテレフンケン社の当時の真空管の写真や特性表がありましたのでしょう介しておきましょう。ついでにどこかに吸収されたLoewe社のも。1920sTelefunkenRadio tubes mc
Loewe++mc.jpg
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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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