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白鵬が超える双葉山の69連勝

白鵬育ての親方と言えば、熊ヶ谷親方、現役時代のしこ名は竹葉山、生まれが九州の地酒の造り酒屋、この地酒のひいきが大阪のウナギチェーン店竹葉亭の大女将、、、この人が「たにまち」になった関係で、このしこ名を通した。相撲取りとしては、小さい方で、たった1場所だけ、幕内に上がったことがある。それはさておき、その年旭鷲山を頼ってモンゴルから来たなかでは6人目飛び離れて小さくやせで、来日、どの部屋も弟子入りの声がかからず、連れてきた旭鷲山が再三各部屋を回って、「今は痩せだが、この男の父親はモンゴル相撲の横綱だった!必ず大きく佳い力士になる!」と親方説得したが、ついにいい返事がもらえず、明日はモンゴル行きの飛行機に乗せなくてはと言う最後の夜、偶然小部屋の宮城野親方にあったのでこの男いい目をしているでしょう?だが明日の飛行機で帰します!と言ったら、、そういえば精悍な目つきを見せることもあるんだな!ヨシ判った、親父さんのようになるかどうか、賭けてみよう、おい、熊ヶ谷、引き受けた以上はからだの小さいおまえの苦労話が要るだろう、おまえが仕込め!と、、なったのだそうな。
そして今日の横綱白鵬があるわけです。持って生まれた遺伝子、決して悪くない。体も大きくなり、入門時の痩せの面影はない。かいな力も人一倍強くなった。69連勝も当然の力士になっている。
7場所に跨る001mc
双葉山。右目は失明に近い状態。利き手の小指は2度目折れたまま、と言うハンデを負っていたが、それこそ痩せの背高だけで、負けず魂の固まりで、立浪部屋に入門、只相撲道を極めようと精神集中と、精神力を鍛えたようだった。5尺9寸五分34貫、これが入幕を果たしたときの体格、今様のm-kgで言うなら179cm,128kg、日馬富士がまだ安馬で入幕した時より身長は約3cm低く体重はほぼ同じ。安馬が見せた俊敏な動きと同じ、精悍な筋肉質でバネの動きでした。
前頭3枚目からの7場所に跨る69連勝、その始まる頃、は玉錦に叩き込まれて、ストッと両手をついたがこれがバネの弾み負けの最後、その前場所の清水川を浴びせ倒すなどは決まり手は浴びせ倒しなのだが、ニュース映画で見たが、土俵の真ん中から突きっぱなして後退した清水川に弾かれた弾丸のごとく飛びついた勢いで首っ玉に齧り付いたまま砂かぶりまで吹っ飛んでいる。俊敏なと言えば聞こえは佳いが、まだ若さの若干残る荒っぽいところもあったのです。220px-Futabayama_Sadaji.jpg
上掲の新聞スクラップをもう少し大きくして再掲しましょうか。玉錦に負けて次の日「たまのうら」と読みます。に勝って69連勝が始まったのです。
69連勝 7bashoto-taru mcこの69連勝中、特筆すべきは、前頭3枚目から関脇に特進し更に大関で2場所全勝優勝し横綱に上り詰めていますが、この前頭3枚目で、当時の実力第一人者、横綱玉錦にはたき落とされて以後は、昭和13年夏、玉錦が、巡業船旅の初めに盲腸炎を発したのに何これしき、と薬で止めて、頑張って、、大阪天保山について手術しようとしたが、腹の脂肪が厚すぎてメスが届かず、手術が遅れて腹膜炎を併発急死するまで、もう二度と負けなかったことです。これで、当時は昭和12年春場所までは1場所11日制、年春夏2場所、「一年を22日でクラスよい男」でしたが昭和12年夏場所からは1場所13日制となり、横綱の所属部屋に従って、東西対抗で、同じ東方同士の取り組みはない、主立った部屋は立浪部屋と、出羽の海辺部屋が東西にまず分けられ、その他の小部屋が一門別にそれぞれ従い、譜代の小部屋が、数あわせに使われる、と言う時代、立浪部屋の双葉山には出羽の海部屋が当たるわけで、、、打倒双葉、連勝阻止の打ち合わせ相談知恵の出し合いは出羽の海部屋で殆ど3日置かず繰り広げられるようになっていき、双葉の軸足右足に足技を掛ける以外にない!と言う結論に絞り込まれていったようです。当時足癖力士は綾昇、両国、それに吊りの四海波が、まあ出来ないことはない程度、しかしこの道の達人だった綾昇が、何度も内掛けで仕掛けたがバネ足で振りはらって、びくともせず、降参するに及んで、、、打倒双葉の策も尽きたかに見えたのでした。しかし昭和13年夏場所が終わって、夏の終わり頃、ですから66連勝はした後ですが、あるスポーツ月刊誌、に当時唯一人の早大出身力士、笠置山が署名入りで、一文を掲載し、打倒双葉にはこれしかない、と言うことを示唆したのでした。大要次の通り、皆が双葉の軸足右足をねらったが総て外された。彼の筋力はまれに見る強靱なモノ、筋力対決では叶わないのだろう、さすれば、呼吸の間を突くしかあるまいと、夏場所13日間、彼の動きを見つめ続けてみた。彼の動きには余裕があり、動きが素早い、、、が、横綱相撲になって、立ち会いは踏み込んで来ず、受けて立つことで後手の先を取る。この次の踏み出す一瞬前に軸足をちょっと半秒ほど左足に移してから右足を踏み出す。付け入る隙はこの半秒だけ体重を移す左足に、深く足をかけるのでなく、踵で踵を強く蹴る要領、(だるま落としはそうするのだが)、で、外掛けというよりは踵けり払いが有効だろう、これが出来る力士は数少ないかもしれないが、立ち会いが鋭くて足癖のある力士、たとえば新進気鋭の安藝ノ海などは、稽古次第で出来るだろう。、、、と言うことをサジェストしている。それからほぼ半年後の次の場所、昭和14年春場所(1月です)、3日目まで風邪で休場していて4日目から出場した、この予言されたご当人安藝ノ海が、、、その通り但し双葉の右足に実行して大金星を挙げたのでした。このとっさの踵で踵を蹴った外掛けは四本柱を背にしていた検査役も見落とすほどで、/~外掛けかなあ、しっかりかかったようには見えなかったが、双葉の右足が見事に宙に振られたンだから、かかったんだろうなあ!」、、、と言う有様であったそうな。37_01ふたばやま
NHKラジオの実況アナウンサーははっきり左の外掛けー!ッ!と叫んだそうで、、、さすがラジオ実況アナウンスのプロ。私が駆けつけたころラジオでは、もう落ち着いたからか、「連勝双葉、70連勝はならず、一敗地に塗れました!」と叫んでいました。小学2年坊主だった私は、、、「エ--ッ!、双葉山がイーッパイ血まみれだってェ!」と叫んで、大人どもの失笑を買いましたからよーく覚えています。
昭和13年の秋の初め、大相撲は、満州国での巡業を実現し、玉錦亡き直後でしたが、大成功という宣伝でした。
しかし、この巡業で、評判の玉錦が居ないからと、急遽出かけた双葉山以下何名かが、なれぬ満州で不運にもアメーバ赤痢にかかり、年末まで入退院繰り返す羽目になっています。ですから、この69連勝まで行った昭和14年の春場所は、双葉山にとっては病み上がりの稽古不足、、、病気休場したいほどでしたが、何せ前年夏場所後に、横綱玉錦が急逝し、張出横綱武蔵山は長期休場とあって、自分も休場では残る横綱は男女ノ川だけ、東西横綱が揃わぬ本場所ではお客に申し訳ないと、、、悲壮な決意で双葉山は出場を決めた場所だったのでした。そこへ、、、笠置山直伝の飛び道具で新進気鋭の安藝ノ海の奇襲を食らったわけで、、、自分を見失うほども落ち込んだようで、翌日は、鹿島洋に、翌々日は、両国に、と不覚の3連敗もしてしまい、次の2日間は勝って又9日目には故玉錦の愛弟子、玉の海に、玉錦の仇っ!っとばかりに投げ飛ばされています。下げ腹では腰に力の入らぬ場所であったようです。全く不運の69連勝ストップでした。ですから元気な白鵬とは比べものになりませんね!この後、1年半3-4場所の双葉山ははまあまあの成績、、、でしたが、昭和15年の夏場所(5月です)、9日目五つ島戦に4敗目を喫し10日目朝、親方に横綱返上ももう出来ぬからと、引退宣言したいと申し出、慰留されて、とりあえず、10日目から13日千秋楽までの4日間を休場しています。アミーバ赤痢の後遺のようです。
37_02s15 5 21読売引退事件4敗目で
しかしこの後双葉山は大東亜戦争(世界的には第二次世界大戦)勃発後の昭和17年夏場所から19年の春場所までの4場所に、又36連勝をしています。この時期にスイスCIBA社で赤痢の特効薬(キノホルム製剤:現在はスモン病の元になるとて製造販売禁止)が開発され日本でも入手できるようになって、双葉山は体調が復調し体重も公表38貫(実際は40貫150kgあったらしい)まであげていますがこの時期の双葉山が心身ともに円熟した、横綱らしい横綱だったと思います。
強いだけが横綱じゃないってことは、朝青龍の数々の例で、皆さんがご見聞しておられるはずですから。白鵬は確かにより双葉山に近づいています。
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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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