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ナウマン博士と野尻湖の化石そして3連動地震帯

ベルリン博物館200周年ok mc
ドイツにいる帰化ドイツ人の老友、爺さん仲間、exJA1SC/DJ0ULから手紙が来て、緑内障と若干違うがほぼ同様の症状で、網膜陥没が起こって、段々目が目隠しブラインドのように縞状に見えなくなっていくのだと、、、どうしても強迫観念にまいる、、、と。その手紙の切手の一つが、上掲のベルリン博物館開館200周年記念切手。
「博物館」と言うときには、「博物」という単語の意味が、判っているのかな、と思うのだが、じゃ、「博物」とはどんな意味、と訊くと若い人は答えられない。ドイツ語では、切手に見えるように、Naturkunde、英語圏では、Natural History たら云うのだそうである。日本語の伝統的訳語を知らない翻訳者が、これを「博物」とは知らずに直訳したからたまらない。たちまち博物館と「博物」が分離して「自然史」なる新日本語が出来て一人歩きしてしまった。私の母方の祖父は、福島や和歌山や岐阜の師範学校の「博物」の教師でした。岐阜県下で、モリアオガエルの新種を発見、2種に名前が残っていました。隔世遺伝して、私の兄弟には、「テフテフ」と書いた旧仮名遣いの頃から、蝶々にキチガイの兄と、専門の薬学にも役立つ草花キチガイの弟が出来ています。
現在の文科省教育は、「余計な教育お断り」主義なので、「博物」という学問は「とうの昔の学問」「今向きの受験勉強の対象でない」として完全に見向きもされず切り捨てられてしまっています。でも大英博物館や、NYの natural history museumなどは、子供も大人もみんなが楽しんで、勉強になる勉強材料の宝庫であります。「とうの昔の学問」どころではありません。人類のふるさと「自然史」を切り捨てて、何が勉強でしょうか?と思っちゃいます。「自然史を学ぶこと」が「博物」なのです。
たとえばの話、野尻湖のナウマン象に名を残した、明治初年帝国大学の名が冠せられる10年前の10年間東京大学に地質学教室の基礎を固めたほか、陸地測量部の新設を政府に進言し、それが創設されるや大学も受け持ちながら、陸地測量部の部員達に、山や谷の三角測量のやり方の基礎と具体的な実地演習を繰り返し、一人前の測量技師に育て上げたのが、ナウマン博士なのです。彼は、天才的頭脳の持ち主で、マイセンの初級学校を飛び級二回して、上級学校に進学、此処で三角法を習うやすぐその応用で測量法も覚え、多技工学専門学校に進んで、土木工学鉱山学、地質学、博物、測量法を修学、20歳で、工学博士号を取得、21歳で、明治8年の日本の東京大学のお雇い教授に、はるばるやってきたのでした。現在の文科省教育で、こんな21歳で開発途上国の大学へ乗り込んで、これだけの大学教室の基礎固めして、地殻構造的大発見や、地図作りの測量部隊の指導教育までした暇に古生物学的発見まで出来るような人材が育つ可能性があるでしょうか?
ここまで言うと、誤解を生むかもしれません、野尻湖のナウマン象は有名になりましたが、ナウマン博士は、野尻湖で、象の化石を見つけたわけでなく、250px-Parent_and_child_of_elephas_namadicus.jpg
来日してまもなく横須賀から、湯たんぽのような凹凸模様のある石を鑑定に持ち込んだ人の求めに応じて、これはアジア象の亜種、の臼歯である、と、鑑定したに過ぎないのです。その後50年ほども経って大正10年、浜名湖岸の村から、この臼歯や牙、あごの骨などがまとまって発見され、アジア象の臼歯が確認され、横須賀の湯たんぽ石が、本当に日本特有の象の骨であることが判り、ナウマンの鑑定が本当であった記念にナウマン象と命名されたのです。ナウマン象の全体骨格が判ったのは、昭和51年、東京地下鉄、新宿線の工事中、浜町駅の地下22mを掘削中に、ナウマン象の骨3体分が、掘り当てられたことによります。野尻湖のナウマン象は人間によって食べられた残り骨で、バラバラ、それに殆どオオツノジカ等のバラバラの骨数百体分の中に混じっていくつかという程度のようです。此処野尻湖付近でナウマン象の骨を見つけた人も戦後すぐの話で、やはり、最初は[湯たんぽのような石]、kyushi_photo野尻湖臼歯湯たんぽ
の発見から始まったようです。この湖は氷河期あけの石器時代からの遺物の宝庫のようで、その後もう十数回の大規模発掘が行われているようです。
尚、奈良時代の御物の収納庫正倉院の、1000余年の虫除け保存の御物の中に、当時の漢方薬の鎮静剤として動物化石が、「竜骨」御物として十余点ある由ですが、中にこの湯たんぽマークらしきモノがある欠片もある由ですが、、、確かめていません。
一方のナウマン博士の本職、明治18年帝大になる前の10年間の東京大学地質学教室の確立、特に伊能図という白地図しかなかった日本列島のこの途中で、120°ほどに折れ曲がった列島の形から、地殻の造山運動論的に,北は日本海が大陸との間に出来る押し戻し力で止まっているところへ、南からの地殻構造力学的に押しまくられて、途中でポッキリ折れたこと、その折れ目には多分その直後に陥没が起こったはずと推察、関東以西を伊能図を埋めるべく精力的に歩き回って、ついにこの陥没の西の縁の線が、糸魚川と静岡を結ぶ線であると見抜き、サラに、東側線は推定に過ぎないが直江津から、群馬をかすめて、藤沢付近に至るはずだろう、この線付近の断層崖と、地質の急変地区の探査を進めるように弟子達に予言しています。その後地学を習った人たちの中には教える先生の生兵法で、ナウマンのフォッサマグナとは、糸魚川ー静岡線のことである、と飲み込んだ人がとても多いようですが、これは半分で、中央地溝帯ですからそれは西縁線、必ず東縁線があル筈と云うことです。上記したようにナウマン博士は一応の推定線を予言していますが、現在、この東縁線としては、新発田-群馬-千葉線が有力のようです。FM東縁線 直江津-藤沢線mcnaumann-fm mc
西日本も延べ約1万km歩き回り、瀬戸内海と四国の北岸と山脈を見て取り、諏訪湖西岸から、南南西に延びて伊那谷、鳳来寺峡を経て、渥美半島、志摩半島、和歌山岬から四国北岸山地の立ち上がる線を通り九州熊本にいたる、断層滑りの連続線の存在を予言しており、これはナウマン博士が政府に進言して発足した陸地測量部(その後陸軍が統括するところとなった)によって、確認された日本最大の中央構造線と呼ばれているモノです。諏訪湖から東は、この大きな陥没割れ目に南から伊豆半島と伊豆7島のブロックが突っ込んできて、押し上げたことを示唆し、、、弟子達に宿題として与えています。
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以上するところの日本列島の折れ曲がった話から、中央地溝帯フォッサマグナ、そして、中央構造線、本州の基本的地殻構造の概要は、こうして、鹿鳴館時代のさなかに、21歳で来て30前で帰国したたった1人の若きドイツ人博物学者によって、推論確認して結論づけが成し遂げられ、多くの英才の弟子によって次々細部確認され、又陸地測量部によって、白地図だった伊能図も等高線、三角点測量によって埋め尽くされていったのです。
因みに現在までに得られているこの諏訪湖から東の中央構造線は、図の点線の通りで、群馬県の岩宿、さいたま市の岩槻を通り霞ヶ浦北岸から日立沖で、南北に走る棚倉構造線に切り止められているようです。
彼の推定結論づけした中央構造線の記入された図をご覧いただけば、慶長9年に駿河から関東にも大地震が起こって、家康が、駿府城の修復はさておいてもまず急造だったので崩壊した江戸城の再建と江戸の街の再整備にこれ幸いと、西国大名どもの懐金を使わせようとして招集を掛けたのですが、西国も同時刻大地震で、「どういたしまして!こちらも大地震ですっかりやられていまして、復興協力できかねまする」と断り云われてしまってビックリ、あまりの忌ま忌ましさに思案の挙げ句「これでもか!新将軍にも忠誠を誓わぬのか!」と翌年春まだ浅い頃に、ついに将軍職を2代の秀忠に譲ってまで、西国大名どもを江戸城と江戸の街の復興とインフラ整備に大動員の招集を掛けた、、、東海・東南海・南海3連動大地震というのが、「決して切り離せない」一枚板の構造の地殻造山運動によるモノであることが、ご納得いただけると思います。

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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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