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大震災のモト、関東地震による隆起

大正の関東大震災は、相模湾トラフの活断層が動いて、神奈川南部及び千葉・房総半島南部が持ち上がり、揺れはこの地区がひどく、東京は、潰れた家の火元十数カ所からの出火で、下町中心に火の海となり、火に囲まれて逃げ場を失った17万人にも上る焼死者を出したわけです。偶然とはいえ、最も隆起の激しかった房総半島先端の野島岬の、今はやりの、ビフォア/アフタを、写真でなく当時の地質学教室スケッチ係さんの油絵でご紹介しましょう。出典は前稿に引いた同じ本、岩波「科学の本」8杉村新著によります。野島岬隆起B4/アフタ001mc
大正の12年頃、まだ写真技術はやっと、組立型の暗箱カメラ。蛇腹の先に虹彩絞りが組み込みのレンズが付いて、シャッターは、ソルントンシャッターという幕引き型のこれだけで今様のデジカメより大きく重いモノをレンズのさらに先につけて、その爪を落とすのに、空気ゴム球をつけて「ハイ、鳩が出ますよう!」と声を掛けて、このゴム球を握ると爪が外れてシャッターの幕がゼンマイ仕掛けで走るという仕掛けでした。感光剤は、銀塩コロジオンというカゼインと寒天の混合物に、前の晩に暗室内で、感光剤銀塩を混ぜて良く練り、乾板用磨きガラスの厚板に、アプリケーターと言う、均等厚の銀塩コロジオン練りものを引き塗りする器具で均等厚に塗りつけて、一晩乾かして、引き蓋と覗き擦りガラスの付いた分厚くて重い乾板ケースに一枚一枚収納して、写真助手という力持ちに三脚などと一緒に担がせて持ち運んだモノでした。只写真それも黒白だけの、を取るだけにも、これだけの機材を2人がかりで担いで運んで、、、スケッチ描く絵描き1人の絵の具箱と画板一枚のカラー絵スケッチに叶わないのです。ですから、地学教室だけでなく、いろいろなスケッチ絵が必要な、教室には、学生の時から細かいスケッチ画のうまい学生にめっこを入れて、教室助手に残ってもらうのが通例だったようです。このスケッチを残した人も、東京帝大地震研と地質学教室の掛け持ちで、有名だった人のもののようです。この方は正月明け、旧正月前に一年分の休暇をもらって、温泉旅行するのが楽しみで、このビフォアも、たまたまこの野島崎の燈台の見える旅館の二階の窓から「燈台のある風景」を油絵で、モノしていたのだそうで、、、そしたら8ヶ月後に関東地震、南の方が持ち上がったぞと聞いたので、先生に、実は正月にスケッチしてありました!と云って、翌年旧正月に此処へ今度は出張扱いで、行かせてもらえたという逸話が残った油絵なのだそうです。アフタの方は燈台がくづれ落ちてなくなっています。船が不便するので、と慌てて建設しても2年近くはゆうにかかる時代だったのでした。
陸地測量部による地図のビフォア/アフタと航空写真で、野島岬の隆起の様子を示します。よく見て、前述の油絵の細かさを御納得ください。
野島岬隆起B4/アフタ002tizuAPHmc
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