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玉音放送の日の各新聞朝刊は午後配達された!

毎夏、終戦の日が近づくと、玉音放送のことは、TVやラジオで、蒸し返されますが、当時ラジオは、電波管制で、4月26日から、一切の余計な電波の発射は停止し、只軍管区司令部の発する、軍管区情報と、防空情報だけが、臨時的に短時間発射されただけで、軍や政府が流す管制報道は、総て、各新聞社の朝刊だけが頼りでした。夕刊は、確か、昭和17年の秋頃まで、週i-2回、それも地方では翌朝の朝刊への折り込みになっていたと思います。その後夕刊はなくなり、新聞と言えば朝刊のみでした。

「明15日正午に重大放送があります」とラジオが云った最初の放送は、確か、前夜14日の午後10時過ぎの防空情報、「警戒警報発令」の直後だったと記憶します。その後、[警報発令」「警報解除」の放送のたびに一回宛放送がありましたが、目立つ言い方ではなく、付け足し程度の言い方でした。
中学2年の我々は、学徒動員先の軍需工場の親工場が、7-8月の相次ぐ、F4F艦載機の機銃掃射と、昼間のグラマンTBF雷撃機300px-Grumman_TBF_Avenger.jpg
の油脂焼夷爆弾(後の朝鮮戦争ではナパーム弾となるプロトタイプの実験弾!)M47*)の攻撃で、鋳物工場と、素材製造工場等が、灰燼に帰し、材料供給が絶たれ動員先の仕事がなくなるので、8月15日午前中に同所の退所式、正午の重大放送は徒歩で途中母校中学校に立ち寄って聴き、午後は、学校の反対側の、自転車・リヤカー会社だった工場で、木製飛行機の仕事に就く、入所式の予定通り、午前中に仕事を締めて、10時過ぎ退所式、そして、ぎらぎら灼き付く、炎天下を徒歩で学校に向かいました。運動場を夏の灼けた空気が砂埃を巻き上げて、飢えと渇きで、日射病寸前を、銃器庫の前の、栴檀の並木の木陰で、くたばっていました。職員室に動員学年到着、を報告に行った級長が、妙に青ざめて、緊張の極、と言う顔で帰って来、[校長が、だいたい見当は付いているがまだ言えないがとにかく正午の放送前10分ぐらいで、講堂の窓を開け放ってから講堂に入ってくれ、使わぬから中は蒸し風呂だ!」と言ったが、、、「だいたい見当は付いている」がとても気になる」と小声でぼそぼそ言った。
窓あけ決死隊が先発したあと、我々は、頃合いを見計らって、講堂に入った。校長以下4-5人の先生も入ってきて、12時の時報があり、、、緊張のアナウンサーが、何か言って、、、校長も「オイ、静かに聞くように!」と言い、、、なにやら眠い声の放送が始まったが、、、中味は全く聞き取れず、、、睡魔に負けて、眠り込んでいた。考えてみたら私は当時すでに一人前のターレット旋盤工で、喀血患者徴用工 山さん担当のがたのあるターレット旋盤を何とか使いこなせるのは私だけで、前夜は材料が入ったので、徹夜で、潤滑油歯車卿筒用の軸切削100数十本を削りだしていたのでした。
隣の席の友人が、目を真っ赤にして、「コニャロウ!、寝ているバワイか!校長は「この仇はきっと君たちで取ってくれ!」と言ったぜ、、、どうすりゃいいんだ!起きろ、おまえの知恵がいる!,,,」と言ってたたき起こされた「荒井製作所の入所式は?」と愚にも付かないことを云って、「戦争はもう終わったんだ!この野郎!」と背中を息もつけないほどどやされた。小使い室の前の井戸へ走っていって、順番を待って顔を洗い、水を腹一杯飲んで、、、自転車小屋で、又眠りこけて、大汗掻いて、又顔を洗い、帰宅したら、家に朝刊が来ていた。午後の配達だったそうだ。すでに「終戦の詔書」が活字になっていた。朝日815002mc
この朝の新聞が朝刊が来ない!ことで、わが中学校長同様、ことの重大さに感づいた人は多かったのであろうと思われる。意外にこのことは新聞自身も取り上げないのがむしろ不思議です。
何も朝日新聞に限ったことではありません、新体制下合併していた読売報知、毎日でも同じこと、新聞スクラップ狂の友人の協力で、3紙を集めてみましたご覧ください。この友人家は毎日だったそうです。3紙比較mc
3紙とも午後の配達。毎日には、大きな写真で、伊勢神宮の橋の前で、地面に正座して頭をたれる、10数人ほどの人の写真が[伊勢神宮の神前で国体の護持を誓う民草」のタイトルのモトに掲載されています。「神国日本」は、こうして終わりを告げたのです。軍部と、その尻馬に乗った戦争煽動ジャーナリスト徳富蘇峰翁が、声を大にして、[大和魂で勝ち抜こう!」と言い続けたが、三越の玄関の青銅のライオンさえrio.jpg
折角供出されても原宿の貨物駅から列車に乗せることも出来ず、東郷神社の裏の楠の大木の木股を利用してやっとこすっとこ、馬力車から草むらに放り出されたまま、終戦まで、動かすことも出来ない状態の貧乏国日本では、物資の欠乏の上に運搬手段が極度に未発達で、モノが少しはあるところにはあっても運ぶ手だてのなかったことも、戦争終結を早めたと思います。

たとえば、5年ほど前、懐旧記事も時々書く雑誌「丸」が、伊号400型5千トン級特大空母潜水艦300px-I400_2.jpg
220px-I400Hangar.jpg
を紹介して話題になりましたが、実際に関係した窯業関係者から聞いた話では、潜水艦の潜行時動力源は鉛蓄電池、鉛や硫酸は生産地にあっても、蓄電池の箱にする耐酸ガラスがない。四国の山の中にはガラス用の砂はあったがガラス工場まで運ぶ運搬手段がない。潜特400型用蓄電池の容器は、硫酸に耐える、常滑焼き常滑焼代表mc
で知多半島沿岸で焼き、駆逐艦で沖取りして、硫酸のある製錬所に運んで汲み入れ、潜特400型の待つ、3つの造船所に運んだとのことであった。そのうち1隻が、うち続く、愛知時計航空機工場の爆撃で造っては焼かれ、造っては焼かれて完成も延引し伊号400型潜水艦への搭載が遅れた、
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晴嵐3機300px-M6A1.jpg
と航空魚雷3発を搭載、漸く8月13日に南洋向けに出航したが、、、15日正午にはまだ房総沖で、終戦、直ちに白旗「我抵抗の意志なし!」を掲げて浮上、数時間後に米駆逐艦に拿捕されたと云うことです。
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*)M47油脂焼夷爆弾:(日本側は、この焼夷弾を50K油脂焼夷弾と呼ぶ)は、本体にガソリンにゴム・灰汁・ココナッツ油を成分とするゼリー状の混合剤を封入したもので、長さ1.22メートル、直径20.32センチ、45.3キロ(100lbs)の重量をもっていた。その抜群な貫通力は、大きな建物の屋根を貫通、内部で爆発し豆腐状の油脂引火物を10-30m四方にまき散らして1瞬後豆腐状の中の金属ナトリウム粉の酸化熱で一斉引火した。
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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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