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アフリカ、ザンビアのザンベジ川と、回廊と、ザンジバル島交換

丁度話がみんな入った地図が、見つかったので、ザンビアの局の交信カードとともに掲出しましょう。山あり谷あり平野ありの地図はナミビヤのをご参照下さい、ここでは重要なザンベジ川がポイントですので。サンビアと、ザンベジ川 回廊とザンジバル島mc
第二次大戦下まで、現ナミビアと、現タンザニアはドイツ領でしたが、アフリカの西と東海岸の国で、グルッと喜望峰を回るのは難儀でした。そこで、大英帝国が舌なめずりしてほしがっていた、タンガニーカの首都ダルエスサラームの北の沖合の貿易港がある島ザンジバル島(当時のプリフィックスはVQ1)と、このザンビアとジンバブエの国境を流れる南アフリカの西寄りからモザンビークの海岸までを貫く大河の上流に出るまでのナミビアの東北隅の450kmに及ぶカプリビ回廊を、交換獲得したのでした。
此の地は英領だった頃は、北ローデシア(当時のプリフィックスはVQ2)と称していましたし、東京とは不思議な縁があります。1964年に敗戦後19年目を記念して東京オリンピックが開催されました。東海道新幹線が、不眠不休で完成して、開会式の10日前に開通式営業開始で間に合う。この開会式には、この國の選手団は、プラカード名は、北ローデシア:Northren Roadesiaで開会式入場していますが、2週間ほどの後の閉会式入場にはプラカード名は、ザンビア:Zambiaで閉会式に参加でした。そう、オリンピック開催中に、偶然独立が公認されたのでした。coin+閨也↓蜿ー_convert_20100624084020

オリンピックは平和の象徴でなければなりませんが,,,19世紀から20世紀にかけては、アフリカは、列強諸国の土地の奪い合い、やりとり交換、植民地化競争の場で、南北を縦に貫こうとする大英帝国と、東西を横に貫こうとするポルトガルがこの中央アフリカやや南で、大いに張り合っていたのでした。ここの北には中央アフリカコンゴの鉱山資源獲得に早くからベルギーが奥地深く入り込んでおり(当時のプリフィックスはOQ)イギリスは南ローデシヤより北の、ポルトガルが西海岸のアンゴラ(当時のプリフィックスCR6)を、東南海岸モザンビーク(当時のプリフィックスCR7)とを結ぶ、世界第2の水量を誇るこのザンベジ川の領有を狙っていたわけで,,,イギリスは大英帝国の威厳にかけて、北ローデシヤの植民地化には異常な熱意を込めて、領民の教育徹底による識字率の向上、医療施設の拡充による伝染病の拡大防止による死亡率の低減などに意を用い、北ローデシアを一つの楽園に仕上げてポルトガルの横車を寄せ付けないようにしようとしていたのでした。ドイツ領の西南アフリカとタンガニイカとをザンベジ川の船交通で結ぼうというのは大事の前の小事程度で、僅々、南ローデシヤ(当時のプリフィックスはZE)の450kmのカプリビ回廊を、ザンジバル島と交換できただけ、イギリスの方がしてやったりだったはずです。そして、ベルギーと協定して、タンガニイカ湖の南西岸迄のの鉱業地区以外の支配権を譲り受けて、タンガニイカ湖及びタンガニイカ周辺でのドイツの行動に監視の眼を光らせていたのでした。現在のマラウイ地区は当時は南ローデシヤのほんの一部でした。

蛇足的に、東京オリンピック閉会式は、昭和天皇香淳皇后ご夫妻ご臨席に興奮した各国選手団がボランテイア通訳達では押さえきれず、入場誘導がハチャメチャになってしまい、、、隊列も組まず国ごとに一団となって踊り狂いながら、入場するモノもありだいたいは小旗を打ち振り、天皇皇后両陛下の前では「お辞儀」をする人達も多くある状態でしたが、、、誘導の失敗はむしろ、友好表現の場を与えたことになって世界中で大好評、以降のオリンピックの閉会式の定番になってしまいました。
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テーマ : アフリカ - ジャンル : 海外情報

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