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しりとりで、福岡城、、、など

前稿で、南部いやまだ石川政信だった頃、二戸から九戸の城を改築して移るに際し、ここを福岡城と呼ぶことにして、、、自分の将来に福を呼ぼうとした、、武将の話を書きました。この頃にはまだ九州筑前には福岡という地名も、福岡城も存在しなかったのです。
秀吉の統一 001
もっとも、その後、四半世紀もかからぬうちに太閤秀吉が世を去って、バタバタッと、世の中が変わり、徳川家康の世に移り、石田三成の蜂起によって、天下分け目の関ヶ原の、東西対抗戦、、、で、東軍徳川勢で、先鋒もつとめながら、、その実裏で、西軍の機動部隊の寝返り策謀を図り、わずか1日半で、この対抗戦の勝負に決着を付けてしまったということで、外様大名でありながら終戦の論功行賞第1番、家康将軍から、筑前名島、52萬3千石を賜った、黒田長政が、、、当時博多の西はずれ、福崎丘陵と呼ばれていた、殆ど名も無き低い丘の上に、築城するに及んで、、、黒田家(長政の父が有名な、姫路城の黒田官兵衛)に由緒の、備前長船、の縁起地名「福岡」(現:岡山県瀬戸内市長船町福岡)にあやかって「福崎ではチとコマイ、以後この城は福岡城と呼ぶ」と名付けたという。以降、現在でも地の人は、「福岡は士族の町、商人商売の町は博多!」という。、

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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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