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奈良の大仏建立の頃の金属供給源は?

神武東征が、九州地方の金・水銀鉱などの露頭を掘り尽くして、資源枯渇ではないが、当時の人手では掘れなくなって、奈良吉野に掛けて金属鉱が見つかり東征せざるを得なかったのではないかとされると書きました。その後の日本国内の金属資源の利用状況では、学校の歴史では和銅年間に、秩父で和銅が見つかり、はじめて国産銅が貨幣に作られて、「和同開珎」なる穴あき銭が鋳造されたことになっています。これはこれで一つの歴史ですが、、、皇朝十二銭と和同開珎001mc
図は、前出の、吉川弘文館刊行の高校日本史の参考書からのコピーです。謝意を表します。
この和同開珎に限らず、日本で鋳られた、銅銭は減ったり曲がったり錆びて崩れたり傷つきやすく、、皇朝12銭と称して悪銭(ビタ)の標本のようなモノでした。江戸時代になって、明銭と寛永通宝mc
寛永通宝が鋳込まれるまでは、明国からの輸入した明銭と称する「永楽通宝」補助貨幣「洪文銭」が通貨として使われたのです。

この和同開珎が鋳造されたのは秩父で渡来工人によって発見されたつまり、当時の政体に繋がる人によって、発見され利用されたと言うことであって、地方の、政体に繋がらないところでは発見されていても、そのまま野放しであったと言うことですね。
それが、政治が律令制などによって組織化されていき、政体の力が地方に伸びていって、いろいろ知られていくわけです。それから4-50年もして、聖武天皇の時代に、仏教の力を利用して、国中の力を結集しようとして、、、奈良の大仏の建立という一大事業が目論見れます。秩父以前からすでに掘られていた国中の銅・錫・鉛・水銀・金などの金属鉱が、政体に繋がる力で、お布令に従って集められることになったのです。一挙に当時の産出地が知れたわけですね。
この大仏の建立とそれを覆う、大仏殿の大きさと、使用のために集められた諸材料の数量は、幸いなことに、その後20年以内に記録されて「東大寺紀要」という書き物に残っているようです。
当時、最も多くの銅鉱を産出していたのが、山口県の秋芳洞の東の長登鉱山で、江戸時代にはすでに掘り尽くされて、現在は長登り遺跡の名しか残っていませんが、この東大寺の建立のために銅及び銅鉱を送った、送り状とも言うべき、夥しい数の木簡が出土し、奈良の大仏用の国銅の主体は、この長登りから産出したのではないかと見られています。奈良の大仏はその後、2回も戦争などの火事で焼かれていますが、今でも世界最大のブロンズ像であり、又それを収納している大仏殿は又世界最大の木造建築物ですね。
日本では、オリンピックのメダルも、金銀銅と、簡単に言ってしまいますが、、、本当は金銀とブロンズ「青銅」銅と錫の合金なのです。

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テーマ : 歴史雑学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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